第724回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第723話 海軍兵学校 米英の陰謀の事。        2014年2月14日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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  以前、外務省は、アメリカ政府から、「 言う事を聞けないのなら、借金を返せ。」という
 
金融圧力を受けて、シベリアから撤退を約束させられ、外務省がその約束させられたことを
 
日本に持ち帰り、 日本政府も、仕方なしに、承諾し、原 内閣はシベリアからの撤退を閣議決定
 
 
 
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したわけですが、 陸軍の実力者 上原 勇作 陸軍元帥が、「陸軍は、その話し合いには、
 
まったく関与しておらず、陸軍は天皇陛下の軍隊である。 内閣や、外務省の軍隊ではない、
 
そんな話、アメリカに行って、断ってこい。」と、 こう言う態度で、逆に、軍をどんどんと進めて
 
いったというお話は、以前紹介させていただきました。
 
 明治の大日本帝国憲法の欠点でもあるのですが、内閣総理大臣が、陸軍や、海軍のやる
 
ことに、口出しが出来ないような当時は、法律だったのです。
 
そして、肝心の大正天皇が、脳の病で、葉山の御用邸で療養生活の最中で、 陸軍に命令を
 
出せる唯一の人が不在であったのです。
 
 
 
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「陸軍は、陸軍のやり方がある、 陸軍は天皇陛下の軍隊である。内閣総理大臣など、
 
へのそうろう。」と、こういう上原元帥の下には、 陸軍幼年学校から天皇陛下を神様と教え
 
込まれ、一般社会から隔離されて教育を受けてきた、若手過激将校達が、集まるようになっていき、
 
 
 
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ちょうど、統制派と呼ばれる、旧長州藩系列の派閥の田中 義一 陸軍大将が、病気で倒れたこともあり、
 
山縣有朋侯爵の引退もあって、 シベリア出兵で、金儲けしていた、財閥なども上原元帥に接近
 
し、 一大勢力となっていったのです。
 
 この人達の、旧薩摩藩 西郷 継道 陸軍大将の系列のグループを、 皇道派 【こうどうは】と、
 
呼んでいきます。
 
  この皇道派には、 何事も天皇陛下中心で、 君側の官を、武力で排除するという思想の
 
若い陸軍の過激将校達が集まり、 陸軍のシベリア政策に介入してくる、当時の 原 内閣総理大臣
 
内田 外務大臣に対して、反発を強め、 そういう過激な連中に、 シベリア出兵で金儲けしている
 
財閥が、資金提供や、協力をしていったのです。
 
彼らからしてみたら、 物資搬入の中継地の、北海道の小樽に、新しい倉庫などを新築したばかり
 
という業者もいて、 シベリアへの物資の調達がなくなると、倒産するという、そういう業者もいて、
 
いろんな利権が絡み合い、 当時は、難しい政治情勢であったのです。
 
 
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  そのような中、 日本が約束したのに、なかなかシベリアから撤退しないことに、業を煮やした、
 
アメリカ政府は、 日本がイギリスから軍艦を買っていたのですが、それをやめて、日本で軍艦
 
を建造し始めたのを知って、日本が軍艦を作れないよう、圧力をかけてきたのです。
 
イギリスも、日本は、言い値で軍艦を買う、バカなカモのお客であったのですが、軍艦を買わなくなり、
 
自分の国の軍艦をまねして、自分達で軍艦を建造しようとしていた、日本に脅威を感じ、 一緒になって
 
圧力を強めてきたのです。
 
 
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 日本の外務省は、外務省が出かけていって、条約を締結しても、 陸軍のシベリア問題同様、
 
海軍が言うことを聞かない場合、随分困るわけでして、 いっそうのこと、この話を海軍に任せて、
 
海軍の代表者を、日本政府代表として、 ワシントンに送り込んだのです。
 
  その代表が、 時の海軍大臣 加藤 友三郎 海軍大将だったのです。
 
 
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 加藤海軍大臣は、 海軍の実力者、 山本 権兵衛 海軍大将の代理人で、 アメリカからの
 
提案などを、日本海軍の暗号電報で、山本 権兵衛 海軍大将のいる東京に報告し、指令を、
 
またまた、暗号電報でワシントンで受信し、 大日本帝国全権として、軍縮条約の交渉に臨んで
 
いたのですが、 昭和の戦後の資料によりますと、これらの東京の海軍省との、暗号通信が、
 
 
 
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アメリカ側に解読され、 通信の内容が、筒抜けになり、 そのことを知らない、加藤 海軍大将などの
 
日本の全権団は、アメリ国務省に手の内を読まれて、軍縮交渉は、ずいぶん難航していくのでした。
 
 
 
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そして、この軍縮条約は、 日本経済、 日本の政治、 海軍兵学校の私達に、大きな影響を
 
与えていくのでした。
 
 
 
 
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 そして、原内閣総理大臣と、内田 外務大臣が、なんとか、陸軍をコントロールしようとして、
 
大正天皇の名代として、 9月に欧州歴訪から帰国したばかりの東宮裕仁殿下【後の昭和天皇】を
 
当時、摂政という役職に据えて、 天皇の名代という形で、陸軍に勅許【ちょっきょ 天皇の命令の事】を
 
出さそうと工作して行くのですが、この動きを知った、陸軍の皇道派の上原 勇作 陸軍元帥の
 
周辺の軍人は、「 陸軍のやり方に、政治家がクチバシを挟むとは何事か。」と、反発を強めて
 
いくのでした。  
 
 
 
【次回に続く。】