第725回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第724話 海軍兵学校  宮島の弥山【みせん】登山競走の事、  2014年2月15日土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
   大正10年10月29日の土曜日の日は、随分寒く、江田島海軍兵学校は、鉛色の空に
 
包まれ、 寒いためか、ヒョウが降ったのです。
 
 
 
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 いくら末端の皇軍兵士とは言え、随分と冷え込みまして、分隊の同期と、震えていたのですが、
 
翌日の、30日は、宮島の弥山【みせん】登山競技の日でして、分隊対抗で、 成績が悪いと、
 
分隊全員で、 制裁訓練があるという噂で、私達は、明日は良い天候になる事を念じていたのです。
 
 
 
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 翌日の 30日の日曜日、 早朝から、私達は分隊事にランチ【短艇】を降ろしまして、海上
 
江田内から、宮島に移動する事になったのでした。
 
昨日の荒れた天気が、一転して、穏やかな晴天となり、 私達は、水筒に、背嚢を背負い、分隊事に
 
ランチに乗り込みましまして、 「 ビッ、ビッ ビッーーーー。」と、教官の吹く笛の音色に合わせて、こいで
 
いき、スイスイと水面を移動して行ったのでした。
 
 
 
 
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   秋の江田内の海を、隊列を組みまして、 ランチを漕いでいると、さながら艦隊のようで、
 
  眺めが良かったのではと思うのでありますが、 オールをまわすので精一杯で、周囲を
 
  眺める余裕はなかったのです。
 
 
 
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       そして、私達は、順番に宮島の桟橋に横付けしまして、 いよいよ、毎年恒例の登山競技が
 
       始まったのでした。
 
 
 
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       私は、 「 弥山いうたら、どの山かいな。」と、見上げると、 後任の井上 武雄生徒が、
 
       「 淵田生徒、 あの山ダッペ。」と、指さすので、 見上げるとそれは、ずいぶんと高い山で
 
       あったのでした。
 
 
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            実は、井上生徒も、私も、勘違いしていまして、 正面のとんがった山ではなく、 
 
            正面左の大きな山で、弥山 と書きまして、みせん と、当時は呼んでいました。
 
            標高が確か、海抜530メートルで、 戦後の昭和、もしかしたら、呼び名が変わって
 
            いるかも知れないのですが、 毎年、この山を、分隊事に、駆け足で登山することが
 
            恒例となっていたのでした。
 
 
 
【次回に続く。】