第730回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第729話 海軍兵学校 宮島弥山【みせん】の制裁訓練の事。2014年2月19日 木曜日の投稿です。
大正10年10月30日の日曜日 私達の分隊伍長殿は、点呼を行って、 到着の申告を
行ったのでありますが、「貴様、 どこが到着しておるのか。」と、 監事附の曹長殿に、指摘を
受けたのでした。
どうも、 監事附殿は、 私達の登山してきた後の、服装の乱れが、気に食わぬようで、
「 もう一度、良く確認して、 到着申告をせよ。」と、 こうなったのでした。
戦後の現在は、どうかわからないのですが、私達が海軍兵学校に、在籍していた頃は、
身だしなみと言いますか、随分と、服装の検査がうるさくて、 なにもそこまでせーへん
でもと、思う程度、うるさいことを言われたのです。
早い話が、糸すぐ一つ、 制服のシワで、外出が、2時間、3時間、遅れると、
このような事は、 当時は、日常茶飯事であったのです。
そうしているうちに、5分程度離れて 出発した、後の分隊の生徒が、到着をはじめ、
私は、どんどんすぎていく時間に、イライラしたのです。
それはどうしてかというと、前の日に、ひょうが、降って、 いくら瀬戸内海といっても、
秋の江田島への、遠泳など、御免こうむりたかったのです。
分隊伍長殿が、「 全員、注目、さきほど、到着申告にいったのだが、許可が出ん、
全員 服装を点検し、身だしなみをととのえよ、 お互い向き合って、確認をしあ
え、 はじめーーい。」と、号令がかかり、私達は、 ズボンを両腕でつかんで、
うえにあげたり、 靴紐を、結びなおしたりしまして、衣服を整えたのでした。
そうして、もう一度、分隊伍長殿が到着の申告をしに行かれ、 監事附殿が、
私達の身なりを確認に来られ、 やっと、到着が認められたのです。
しかしながら、となりには、後の分隊が整列し、 あんじょう良く、到着確認を受け、
私達は、ずいぶん遅い到着となったのでした。
しばらくして、 糧食【当時のおにぎりのお弁当の事】の時間となり、 みんなで、鳥居を
見ながら、 一服をしたのでありました。
ある後輩は、海軍兵学校を、赤煉瓦刑務所と、呼びますが、 私は一般社会から隔離
された生活の中で、久しぶりに見る娑婆の景色に、ずいぶんと、安らぎを感じたのです。
時間があれば、宮島にお参りしたり、 土産物屋で、何かを買いたいところです。
当時は、そういう年頃だったのですが、 団体行動の部隊生活、 勝手な行動は、
そく、先輩や同期の生徒の連帯責任となり、そのような事は、許されなかったのです。
しばらくしまして、整列の号令がかかり、 私達は、点呼の後、 監事殿のお話を
注目したのでした。
そこには生徒監事の中でも、古株というか、階級が海軍中佐の丹生 猛彦 【海兵
30期卒】 監事の姿があり、大きな声で、「 全員 注目せよ。」と、 号令がかかった
のでした。
「 これより、毎年恒例行事の宮島弥山【みせん】の登山競技の順位の発表を行う、
それぞれ、特別訓練を申し渡す。」と、 マイクもなにもない当時、大きな声でお話が
あったのでした。
【次回に続く。】