第737回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第736話 ワシントン軍縮交渉の事。          2014年2月27日 木曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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  大正10年11月初旬、 遠く江田島海軍兵学校から離れた、アメリカのワシントンでは、
 
多くの日本人の人生を変えていく条約の交渉が、加藤 友三郎  海軍大臣を 大日本帝国 
 
全権として、行われていたのでした。
 
 
 
 
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 以前紹介したように、 東京からの暗号通信を、アメリカの諜報機関に解読され、こう提案すれば
 
事前に用意された周到な、返答でどんどん追い詰められ、良い話にはならなかったのです。
 
 
 
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 この交渉の本来の目的は、日本にこれ以上軍艦を建造させないよう、枠に入れて、日本を
 
軍事大国にしないように、圧力をかける英、米の謀略であったのです。
 
 海軍内には、 「軍縮をしたいのであれば、アメリカだけで、やれば良いではないか、どうして
 
日本が、軍縮をしないといけないのか。」と、 軍縮反対派が、気勢を上げ、 当時、海軍省を2分
 
していたのです。 
 
 
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 それが出来れば、 良いのですが、 出来ないから苦労していたのですが、 その意味がわかる
 
海軍軍人は、一部であったようです。
 
 
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 当時、日清、日露の戦争の戦時国債、つまり、借金ですが、 多くを、イギリス、アメリカに買って
 
もらい、 日本は利息を払っていたのですが、シベリアの出兵などで、さらに金額が膨らみ、
 
つまり、借金だらけになっていたのでした。   イギリスは、貸したお金で、軍艦をどんどん建造
 
して、日本に法外な値段で販売し、資金を回収し、儲けた上に、 利息を取って、さらに儲けていた
 
のですが、日本がまねをして、自分達で、造船所を作り、軍艦を建造して、イギリスから買わなくなる
 
と、手のひらを返して、「軍艦を作るお金があるのなら、借金を返していただきましょうか。」と、貸し
 
はがしのような事をしてきたのです。
 
 
 
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 昭和の記録によりますと、 当時、ワシントンの軍縮条約のダニエルプランなる、アメリカの提案
 
 の彼らの言う通りにすると、保有比律が、アメリカが、50万トン、 イギリスが、50万トン、
 
日本が、30万トン フランスが17万5千トン、 イタリアが17万5千トンと言う比律で、なおかつ、戦艦
 
の数を、イギリスが30隻、アメリカが20隻、 日本が10隻となり、 竣工したばかりの新造戦艦、陸奥
 
 【むつ、 長門型の2番艦】を、スクラップにすることになり、東京の山本 権兵衛 海軍大将は、
 
 
 
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 それだけは何とか避けたいと、 暗号電報で、加藤 友三郎 全権に、以後一任していたようです。
 
その、陸奥をなんとか、残す形で、条約がまとまったのですが、その代わりに、確約させられたのが、
 
早期にシベリアからの撤退を、一年以内に行うよう、釘をさされて、約束させられたようです。
 
  当然、その交渉団の中に、陸軍の関係者はおらず、国に持ち帰っても、「陸軍がいない場所で、
 
おかしな約束をしてきて、陸軍は預かりしらん。」と、 こうなるのは、加藤 海軍大臣も、わかって
 
いたようですが、 陸奥をなんとか、残したいと言う事で、 仕方がなしに、条件の中に入れて、
 
日本に持ち帰ったようです。
 
 
 
 
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  この軍縮条約の発効は、よく年の、大正11年2月からでして、 この取り決めには、海軍内や、
 
 海軍の系列の財閥の企業関係者に、大きな反発を買うのです。
 
 と、言いますのが、この11月13日には、 日本で初めての航空母艦の 鳳翔 【ほうしょう】の
 
船体の進水式があり、  11月17日には、戦艦 加賀の船体の進水式があり、 祝賀行事が
 
造船所で予定されていて、 この条約によれば、鳳翔は別にして、山本 権兵衛 海軍大将の
 
八八艦隊構想による、 戦艦 加賀、赤城、天城 などの建造途中の軍艦を解体しないといけない、
 
 そんな条約であったのです。
 
 進水式の後、 「実は、軍縮で建造が中止となり、 スクラップにすることとなった。」と、 こう言う事
 
になれば、造船所の経営者も、 運転資金を融資している銀行も、仕事をしている労働者も、
 
随分困るわけでして、 新聞が軍縮の内容を報道すると、 大きな反対の争議がおきていくのでした。
 
そして、この軍縮条約は、私達の海軍兵学校にも、津波のように押し寄せるのです。
 
 
 
 
【次回に続く。】