第738回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第737話  戦艦 摂津の江田内入港の事。    2014年2月28日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
    加藤 友三郎 海軍大臣が、戦艦 陸奥【むつ  長門方戦艦の2番艦】を、なんとか、
 
スクラップにしないよう、ワシントンで、頑張っていた、大正10年11月13日の日曜日、
 
海軍兵学校の大講堂で、 松崎 直 教官監事 海軍中佐【海兵31期卒 熊本県出身】の講演が
 
あったのでした。
 
 以前紹介しましたが、 日曜日は休日で、 今日こそは外出できると、楽しみにしていたの
 
ですが、山を越えた、小用港で、当時、腸チフスという伝染病が発生し、 生徒は感染予防の
 
ため島内には、外出禁止になっていたのです。
 
 
 
 
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         私達は、海軍兵学校に入校以来、 3ヶ月ちょっとですが、 少しだけ、授業を受けて
 
      海軍軍人という、プライドと言いますか、認識を持ち始めた頃の事でした。
 
      講演のお話というのは、 前の方に、1号生徒、 真ん中に、2号生徒、 後の方に
 
      私達3号生徒の順序で、すわりまして、 後から、視力の弱い目で、前を見つめて、
 
     マイクもなにもない当時のこと、 何のお話か、聞き入っていたのでした。 
 
      お話の内容は、 軍艦内での海軍将校の過ごし方の心がけという、お話でして、
 
 
 
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       私は、ずいぶんと、興味深く聞いていたのでしたが、少し驚いたことに、近いうちに、
 
       軍艦に乗って、瀬戸内海の伊予灘あたりまで、 体験航海をしたり、 呉の鎮守府
 
       現用の軍艦の見学会を予定していると、 そんな、楽しみなお話もあったのでした。
 
 
 
 
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     翌日の大正10年の11月14日月曜日、 記憶によりますと、薄曇りの日でしたが、私が
 
    休憩時間中、 周囲と雑談していたのでしたが、 「 さいきん、寒いよってーーー云々。」と
 
    いっていると、 源田生徒【 のちの海軍大佐 参議院議員 】が、「 少々、寒い程度が
 
    どおした、わしゃー、 生まれてこの方、風邪などひいて、熱など出たことがないわい。」と、
 
    言うので、私が、「 ほんまかいな、ーーーえーーー、そりゃーーすごいこっちゃでーー。」と
 
    いっていると、本当に彼は当時、 そうだったそうで、随分元気な少年であったのです。
 
    私はと言いますと、 はなたれ小僧になるのは、しょっちゅうほどでもなかったのですが、
 
    寒いのは苦手でして、 こたつが好きな人間で、 こたつで、大やけどをして、入院してしまう
 
    のですが、 それは、又順を追って、紹介させていただきます。
 
 
 
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    そんな、話の最中、 横から、「 おーーーーい、淵田生徒、 大変だっぺや。」と、後任の
 
   井上 武男生徒の声がしたので、振り向いて、「 どないしたんや。」と、問うと、 走ってきて
 
   彼が言うには、 「大きな戦艦が、江田内【海軍兵学校の前の湾】に入ってきたダッペ。」と、言うので、
 
   私は、「 ほんまかいな、 えらいこっちゃのーーー。」と、みんなの顔を見渡すと、 源田が、
 
   「 ほんなら、みんなで、いつてみょうやーー。」と言うので、私達は、 いそいで、兵学校の
 
   正門のある、西側の海岸沿いに、走って行ったのでした。
 
 
 
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   そこには、生まれて初めて見る、戦艦の摂津【せっつ】が、 入港し、 アンカー【いかり】を
 
 打っている最中だったのです。
 
 私は、「 ほうーーーー、 戦艦ちゅうのは、すごいもんやのーー、あの大砲を撃ったら、どこまで、
 
弾が飛んでいくんかいな。」と、言うと、 同郷の奈良県の、小池 伊逸君【後の連合艦隊水雷参謀】が、
 
「 あの大砲の砲身を角度を、あげたり、 水平にしたりすることで、砲弾の飛距離が、変化するみ
 
たいや。」 と、言うので、 1度、乗艦してみたいもんやナーー。」と、私達は、眺めていたのでした。
 
そして、少しして、この軍艦に生まれて初めて、乗艦することになるのでした。
 
 
 
【次回に続く。】