第764回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第763話 海軍兵学校 薄暗い艦内生活の事。    2014年3月26日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
   私達は、 修学旅行でぞろぞろ生徒が歩くように、ガイド役の特務少尉殿に先導されて、
 
  戦艦 扶桑【 ふそう 】 の艦内に降りていったのです。
 
  普段、戦後の海軍を題材にした映画などでも、ほとんど紹介されない部分ですが、随分と厳しい、
 
  大変な作業及び、生活環境であったのです。
 
 
 
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    戦後の映画や、戦前のニュースフィルムでも、 艦内の機関室などは、撮影しないことが多い
 
 のです。 どうしても、 御天道様の当たる、大砲とか、機銃とかの撮影になってしまうわけです。
 
 戦後の海上自衛隊で言えば、第2分隊、戦前の砲術科の作業などがほとんどです。
 
 又、 戦後の自衛隊の第1分隊、戦前の航海科の信号兵とか、操舵員の写真などが良く撮影され
 
 ています。
 
 
 
 
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    このような部分が多いのは、撮影して絵になると言いますか、 日の当たる部門なのですが、
 
 これからお話しします部分は、日の当たらない、 映画にも出てこないお話です。
 
 甲板から、急な昇降設備を一段下りますと、薄い暗闇の世界なのです。
 
 戦後の自衛隊の艦船の艦内は、照明施設が充実しており、明るく快適な艦内でありますが、
 
 大正時代の艦船の艦内は、暗闇が多く、 薄暗い場所でありました。
 
 特に機関科、 戦後の海上自衛隊で言いますと、第3分隊に相当する部門ですが、溶鉱炉
 
 近くと言いますか、室内温度は 40度以上、50度近く、 風呂場の中に入っていて、薄暗い暗闇
 
 と、耳をふさぎたくなるような、大きな騒音の世界での作業環境だったのです。
 
 
 
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   私達は、案内の特務少尉殿から、「 足元と頭を気おつけよ。」と、忠告を受けまして、見学
 
   したのです。
 
    中に入りますと、空気が悪いわけです。 グリスの臭いというか、油の臭いというか、
 
   粉じんの中の作業で、当時は、肺を悪くする水兵も多かったのです。
 
   昭和の戦後の病名で言いますと、 じん肺という病気に該当します。
 
   どうしてそうなるかと言いますと、 石炭、コークスを扱いますと、ススが発生し、室内が
 
   ホコリまみれと言いますか、 ひどい環境でした。
   
 
 
   
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     石炭、コークスの積み込みがとてもつらい作業と言いましたが、 ここの機関室の作業
 
   というのは、 さらに灼熱の中の作業で、 めったにないのですが、 時たま有毒ガス、【一酸化
 
   炭素】などが発生する事もあり、防毒面が手放せず、 50度前後の室内で、防毒面をつけて
 
 
 
 
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      作業している風景を見学しますと、とても、私には務まりそうにないと感じたのです。
 
      反面、 機関室の窯から離れていきますと、随分冷たく、寒いのです。 日も当たりませんし、
 
      喫水線の下は、水面下で、0度近くに下がることも多かったのです。最低限の照明の
 
      世界で、 ずいぶんつらい生活環境でした。
 
      それから、一日中暗闇の中ですので、 時間の感覚と言いますか、 体調不良になる
 
      人も多かったのです。
 
 
 
 
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    それから、海軍の当時の軍艦では、大型艦では、艦長以外、ほとんどの者には個室などはなく、
 
   ベットもなく、布団もなく、 狭い艦内を有効に使用するため、ハンモックであったのです。
 
  
 
 
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                朝の起床ラッパが鳴りますと、このようにかたずけるわけです。
 
          
           私達の一行は、機関科の区画を見学し、 日の当たらない、蒸し暑いススだらけの
 
          作業環境と、 薄暗い、寒い油まみれの、 空気の悪い作業環境を見学して、
 
         「 うわーーー、わいには、これは、とても、つとまらへんわ。」と、心の中で思って、次
 
         の区画に移動していったのでした。
 
         
 
 
 
【次回に続く。】