第766回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2014年3月28日金曜日の投稿です。
私達は、 戦艦 扶桑 【ふそう】の炊事場などを、見学いたしまして、少しお腹
がすいてきたのでありますが、そのまま、甲板に上がりまして、御天道様の当たり
ます、 甲板にやっと出たのでした。
どういう感じかというと、穴蔵から、 外に出て、潮風と、太陽がずいぶんと、壮快
に感じたのでした。
ハンモック番号の若い順番に、 ランチに乗り込みまして、 呉の鎮守府の
船着き場に移動していくのですが人数が多いので順番に移動する事になってい
て、 ハンモック番号が多い私達は、 時間つぶしではありませんが、 甲板で相撲
【 すもう 当時は角力と書いていた。】の稽古の見学をさせていただいたのです。
の艦には、艦内に、相撲部とか、 柔道部とか、剣道部とかが、ありまして、停泊中
などは、それぞれの、艦 対抗試合などが企画され、 大正時代の当時は、それを
見学するのが、当時の楽しみの娯楽のひとつであったのです。
の様な、艦内新聞のような印刷物も発行されまして、ずいぶん楽しまれたのです。
源田生徒や、同郷の小池生徒が、ランチに乗って離艦した後、私達の分隊は、
甲板で行われる、相撲の稽古を見学することになったのです。
ルールというか、土俵は至って簡単、 麻のロープを、ぐるりとまきまして、「 土俵、
準備よろしい、よーそろーー。」と、 言う事になると、 そのぞれの部門から、我こそ
はという人が、 名乗り出て稽古したり、 行司役の下士官が指名して、 相撲を
取ったわけです。
戦後の現在、 テレビで相撲中継を見る程度ですが、私達が海軍兵学校の生徒の
頃は、尋常小学校、 中学 【現在の高等学校の事】 などでも相撲の授業があって、
身近な武道であったのです。
しかし、 相撲とは、戦後の表現で、 当時は 角力 と書いて すもうと発音
していたのです。
テレビ中継の、相撲と違い、 張り手や、肉体と、肉体がぶつかり合う、激しい物
で、見ていて、戦後の相撲より、当時の角力は随分と迫力があったのです。
徐々に縮小され、 たしか、 5月か、6月に、授業ですこしやる程度になって
いきます。
戦後になって考えると、日本男子の下着が、ふんどしから、パンツに移行するに
したがって、 どんどんと、角力は下火になっていったように思います。
相撲で言う、まわし、 といいますか、 そういうものが、 別途用意するというのが、
どうも、負担と言う事で、 剣道や、柔道に、比重を置いていく原因だったのではと
思います。
そして、私達は、やっと移動離艦命令が出まして、ランチに乗り込むことになったの
ですが、以前紹介したように、登るより、降りる方が怖い物でして、 なんとか、冬の
呉の海に落ちずに、 ランチに乗船して、呉鎮守府を目指して、こいでいったので
した。
【次回に続く。】