第792回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第791話 海軍兵学校 人員整理の事。 2014年4月23日 水曜日の投稿です。
大正10年12月4日の日曜日の朝は、随分と冷え込みまして、 後任の井上 武男生徒
などは、 はなたれ小僧のようになってしまいまして、 くしゃみをしていたのを記憶しております。
当日は、曇り空で、午後から晴れてきたのですが、 例の以前紹介した、腸チフスの伝染病の
関係で、外出は出来ず、 私は温習室で、井上生徒と、復習を兼ねまして勉強していたのです。
千坂 智次郎 海軍中将との間で、激しいやりとりがされていたのは、一部の人しか知らぬ
極秘事項でしたが、 後日、私はそのやりとりを知ることになっていきます。
【 本省派の 加藤 友三郎 海軍大臣 】
山本 権兵衛 海軍大将、 元内閣総理大臣を中心とする、本省派 と呼ばれる派閥と
そうでない、 艦隊派と、呼ばれる人々と、別れていたと紹介したのですが、 加藤 友三郎
海軍大将は、 海軍の本省派の やくざ風で言えば、若頭 でしょうか、 派閥の№2で
あったのですが、 私が海軍兵学校に在籍していた当時の校長先生、 千坂 智次郎
海軍中将は、 艦隊派の中心人物だったのです。
実は、私達に知らされていなかったのですが、 12月1日付け発令で、 私達の海軍
ようです。
以前紹介しましたが、 ハチ、ハチ 艦隊構想に元図いて、建造されていた、戦艦
加賀、 赤城、天城 などが、ワシントン軍縮条約で、建造が途中で中止となり、
それらに乗艦させる予定で教育していた、海軍将校も不要になったわけでして、
第50期、 第51期の生徒は、 入校から年数がたっているので、現状のまま、教育を
続け、 入校から間もない、第52期の生徒を、 なにがしかの方法で、理由をつけて
削減せよと言う事であったようです。
私達生徒からしたら、ずいぶんと、理不尽なお話ですが、 その人数のことで、 東京の
加藤 友三郎 海軍大臣と、 千坂 智次郎 校長との間で、 なんとか、現状のまま、
続け、来年度採用生徒を、大幅に削減すると言う事で、折り合いがつかないか、やりとりが
行われていたのでした。
【 当時の海軍兵学校の校長 千坂 智次郎 海軍中将 】
生徒となった者を、落ち度もないのに、解雇は出来ないと、 こういう申し立てであった
のです。
そして、いよいよ、私達を震撼させる出来事が、12月4日の夕方に起きるのでした。
【次回に続く。】