第793回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正10年12月4日の日曜日の夕方、私達は、いつも通り食事をしまして、バス【風呂】に
入りまして、 良い気分になっていたのです。
何しろ、12月に入りますと、 潮風がとたんに冷たくなり、奈良盆地とは違う、冷たい風に、ずいぶん
寒い思いをしていたのですが、 兵学校のバス【風呂場】は、以前紹介したように、すごく深く出来てい
て、座ることは出来ず、首まで深さがあったのです。
反面、ずいぶんと暖まることが出来まして、ずいぶんとさっぱりしたのでありました。
一服していると、 「 全員注目、 本日1800時から、 3号生徒は、講堂に集合せよ。」
と、命令がありまして、 1号、2号生徒とは別に、私達は、講堂に移動したのでした。
私は、先輩方の、説教を聞かずにすむと、内心喜び、 昨日の 山本海軍大佐殿の、旅行話の
ような事が、又、聞けると思っていたのです。
私達は、整列して、点呼の後、 前に来られた、安藤 亀治郎海軍大尉に。敬礼した
あと、 着席を許され、 安藤大尉殿に注目したのでありました。
話の内容が、 「12月の中旬に、 3号生徒の学内考査試験を行う。」という、こんなお話で
ありました。
他にも色々伝達事項があったのですが、 私は、日曜日の気分が良い、夜に、あと2週間
しないうちに、嫌いな試験があると聞いて、ずいぶん、胃が痛くなる思いをしまして、この時、
発表はなかったのですが、 年が変わって、耳に入った事をまとめて推測しますと、 どうも
この試験で、末尾から、全体の人数の10パーセントに当たる、30人程度を、海軍兵学校の
授業について行けずと判断して、 退学にさせると言う事が、決まったようでした。
私は、当時、このような発表もなかったので、 そこまで深刻に考えず、又、成績順に、
ハンモックナンバーが変更になり、 クラス替えでもするのであろうと、 こんな事程度に
考えていたのでした。
加藤 友三郎 海軍大臣がワシントンから帰国すると、 造船所では、命をかけて組み立てて
進水した、戦艦 加賀、 建造中の、戦艦 赤城、 戦艦 天城 などの仕事が、12月1日
ずけで、停止され、 職人達は、仕事が無くなり、 その下の材料屋なども、 資材調達が
ストップし、 大きな混乱が起きていきます。
経営者のほうも、 海軍からの一方的な命令で、工事が中断し、 翌月には、 一方的に
夏の暑い、鉄板の焼ける暑さの中、 工事してやっと完成し、船体が浸水した、船を、
「すぐ解体し、処分せよ。」と言う、鬼のような理不尽な命令が発令されていくのです。
造船関係者、 融資している銀行、 労働者、 資材を搬入している、材料屋、その人達が
出入りしている食堂のおばさんまで、造船所のその地域全体の人々から「 海軍大臣
加藤 友三郎はけしからん。」と、恨みに思い、 海軍の非主流派の艦隊派の将校と連携して、
批判が強まっていくのでした。
当時、私達は、江田島の中にあって、世の中のことがよくわからず、 知らないうちに
【次回につづく。】