第793回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第792話 海軍兵学校 安藤 亀治郎海軍大尉のお話の事。 2014年4月24日木曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
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   大正10年12月4日の日曜日の夕方、私達は、いつも通り食事をしまして、バス【風呂】に
 
入りまして、 良い気分になっていたのです。
 
 
 
 
 
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何しろ、12月に入りますと、 潮風がとたんに冷たくなり、奈良盆地とは違う、冷たい風に、ずいぶん
 
寒い思いをしていたのですが、 兵学校のバス【風呂場】は、以前紹介したように、すごく深く出来てい
 
て、座ることは出来ず、首まで深さがあったのです。
 
反面、ずいぶんと暖まることが出来まして、ずいぶんとさっぱりしたのでありました。
 
 
 
    一服していると、 「 全員注目、 本日1800時から、 3号生徒は、講堂に集合せよ。」
 
と、命令がありまして、 1号、2号生徒とは別に、私達は、講堂に移動したのでした。
 
私は、先輩方の、説教を聞かずにすむと、内心喜び、 昨日の 山本海軍大佐殿の、旅行話の
 
ような事が、又、聞けると思っていたのです。
 
 
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     私達は、整列して、点呼の後、 前に来られた、安藤 亀治郎海軍大尉に。敬礼した
 
  あと、 着席を許され、 安藤大尉殿に注目したのでありました。
 
  安藤 亀治郎海軍大尉殿は、 兵学校第39期卒、 大分県出身の方であったと思います。
 
  話の内容が、 「12月の中旬に、 3号生徒の学内考査試験を行う。」という、こんなお話で
 
  ありました。
 
 
 
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   他にも色々伝達事項があったのですが、 私は、日曜日の気分が良い、夜に、あと2週間
 
  しないうちに、嫌いな試験があると聞いて、ずいぶん、胃が痛くなる思いをしまして、この時、
 
  発表はなかったのですが、 年が変わって、耳に入った事をまとめて推測しますと、 どうも
 
  この試験で、末尾から、全体の人数の10パーセントに当たる、30人程度を、海軍兵学校
 
  授業について行けずと判断して、 退学にさせると言う事が、決まったようでした。
 
   私は、当時、このような発表もなかったので、 そこまで深刻に考えず、又、成績順に、
 
   ハンモックナンバーが変更になり、 クラス替えでもするのであろうと、 こんな事程度に
 
   考えていたのでした。
 
 
 
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     加藤 友三郎 海軍大臣がワシントンから帰国すると、 造船所では、命をかけて組み立てて
 
    進水した、戦艦 加賀、 建造中の、戦艦 赤城、 戦艦 天城 などの仕事が、12月1日
 
    ずけで、停止され、 職人達は、仕事が無くなり、 その下の材料屋なども、 資材調達が
 
    ストップし、 大きな混乱が起きていきます。
 
    経営者のほうも、 海軍からの一方的な命令で、工事が中断し、 翌月には、 一方的に
 
    夏の暑い、鉄板の焼ける暑さの中、 工事してやっと完成し、船体が浸水した、船を、
 
    「すぐ解体し、処分せよ。」と言う、鬼のような理不尽な命令が発令されていくのです。
 
 
 
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    造船関係者、 融資している銀行、 労働者、 資材を搬入している、材料屋、その人達が
 
    出入りしている食堂のおばさんまで、造船所のその地域全体の人々から「 海軍大臣 
 
    加藤 友三郎はけしからん。」と、恨みに思い、 海軍の非主流派の艦隊派の将校と連携して、
 
    批判が強まっていくのでした。
 
    当時、私達は、江田島の中にあって、世の中のことがよくわからず、 知らないうちに
 
    米英のしくんだ【軍縮】という陰謀の波が、私達海軍兵学校生徒に押し寄せてくるのでした。
 
 
 
【次回につづく。】