第847回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第846話 海軍兵学校、 人員整理の激震の事。 2014年6月17日火曜日の投稿です。
大正11年1月9日の月曜日、 新年早々、昨年12月末、私達生徒の知らないところで、
約30人もの海軍兵学校 第52期の生徒が、 解雇されたことについて、 他大学転校
編入などと言う言葉で教頭、兼 監事長 の丹生 海軍大佐殿から、聞かされた私達生徒は、
自分の立場が、不安になると供に、 兵学校に勤めている人達にも、衝撃が走ったのでした。
【 海軍兵学校 一般職員 】
早い話が、 生徒が整理されると、 江田島の中で雇用されている、一般の
職員の人達からすると、明日は、我が身でして、 当時江田島という所は、
漁業と、ネーブル、みかんなどの、柑橘類の農業が主要産業でしたが、安定した
収入が、なかなか望めない、 当時は、そういう経済情勢であったのです。
みなさん、 毎月、決まった日に、 決まった金額の収入があると言うのは、
大変有り難いことでして、 生活の予定も立てられ、基盤もしっかりしてくるわけです。
受け取っている本人は、 受け取っている時は、ありがたさがよくわからないのですが、
いざ、毎月の収入がなくなりますと、身にしみて 痛感することになります。
昭和20年の敗戦後、 海軍省は、復員省となり、 私はそのまま勤めていたの
ですが、、占領軍に、パージに指定され、 戦争犯罪人の裁判を受ける身になった
のです。
真珠湾作戦の英雄は、 またたくまに、戦犯となり、 ついこの間まで、
「 大日本帝国、大勝利。」 などと、戦争を煽る記事を書いていた、新聞記者共
から、手のひらを返したように、何人の民間人を不法に殺したのかと、 新聞に
書かれる身となったのです。
そして、 公職追放となり、 復員省から、 放逐され、 収入を断たれ、途方に
暮れることになります。
他の仕事をするにしても、 職業軍人のため、他の事はよくわからず、 草鹿閣下と、
2人で、「 おい、淵田、 海軍兵学校という所は、 金儲けの方法と、女の事は、なに
ひとつ教えてくれなかったな。 やれやれ、 えらいことになった。」と、いいながら、
苦笑いした物です。
家族がいますと、 子供には、お金がかかる、 家族に後は見せられぬ、 収入は
なくなる、見よう見まねで、商売のまねごとをやっても、なにをやってもうまくいかない、
大変でありました。
農業にしても、 養鶏にしても、 自らの自宅の建築にしても、失敗ばかりでありました。
話は元に戻りまして、 海軍兵学校の内部で、騒ぎになるとともに、 私達は、
次は、自分が、解雇されるかも知れないと言う、 そういう不安にかられていった
のです。
海軍兵学校に、入学すると、海軍大佐までは、自動進級という、そういう、安心感が、
消し飛んでいったのです。
又、 順番に説明していきますが、 数ヶ月後、 こんどは、軍縮と称して、多くの
一般の海軍兵学校に勤務している人達が、解雇、人員整理されて行く事にな
るのです。
私は、 クビにならないようにするには、あの手、この手で成績を上げて、なんとか
するしかないと、 考えが至り、 行動に移していくことになっていったのです。
しかしながら、 周囲は年下の生徒ばかりなのに、 残念な事に、私より学力
があり、運動神経も良い、 なにをやっても、 年下の彼等に及ばないーーー。
どうしたらよいかーーー、 大変 悩んでいくことになったのです。
引っ込みじあんで 、 人前に出ると、 赤い顔をして、 恥ずかしがっていた私は、
次第に、 目立とう精神の出しゃばり淵田生徒 と、悪口を言われる程度、
何事も、存在感を示し、 アピールしていこうと、 海軍兵学校で、もがいて
行くことにiなっていくのでした。
このことが、 数ヶ月後、 生まれて初めて空を飛ぶ事につながっていくのでした。
【次回に続く。】