第855回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第854話  海軍兵学校 協調性を養うの事。    2014年6月25日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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   大正11年1月12日 木曜日の事だったと思いますが、分隊を移動しまして、 周囲に
 
気配りしながらすごしていました。
 
周囲に気配りするというのは、他人のためではなく、自分のためでして、人の顔色をうかがい
 
ながら、海からの潮風の冷たい、寒い江田島の1月を過ごしていたのです。
 
 
 
 みなさん、 家の中で、長男は、 親の顔色をうかがうのが上手で、 次男はそうでもないですが、
 
三男、四男と、末尾になるにつれまして、どちらかというと、親の顔色をうかがうのが下手で、何事
 
も、親から、げんこつを入れられるまで、やめなかったり、 人と物事一緒にするのが下手な人が
 
多いです。 
 
こういう、 ゆるい環境で育った生徒は、 海軍兵学校や、軍隊に入りますと、 周囲と摩擦を
 
おこしたり、 ついて行けなくなったり、はぐれて行くことになっていきます。
 
 
 
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                 【  日本が2番目に建造した大型空母 加賀 】
 
 
      航空母艦 加賀の最後の艦長の岡田次作 海軍小将は、 じっとその人物を眺めて、
 
     「貴様は、兄弟が無くて、一人っ子か。」とか、 「 貴様の家は、兄弟が多くて、 長男坊
 
      か。」とか、あてる名人でした。
 
 
 
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  【  岡田 次作 海軍小将   海軍兵学校第42期卒 金沢第1中学卒 石川県金沢市出身 】 
 
 
         岡田大佐は、 空母 龍譲 艦長から、 昭和16年でしたか、 空母加賀の
 
         艦長に転勤された時は、 源田の【 源田 實 後の航空幕僚長参議院議員
 
         お話では、 随分ご機嫌であったそうで、 私が、「 何でやねん。」と、尋ねますと、
 
         出身地の金沢は、 加賀の國で、 生まれ故郷の加賀という、艦名には、愛着が
 
         あったそうです。 
 
 
 
       話は分隊の中のお話に戻りまして、  上杉 1号生徒殿から、「 おい、淵田生徒、
 
       洗濯をのーー、すまんのんじゃが、 たのむわーー。」と、 声がかかりまして、 私は、
 
       心の中で、「 寒いのに、冷たい洗濯をするのは、難儀や、手がこごえるがな。」と、思った
 
       のですが、作り笑いして、 「  はっ、 これより淵田生徒、洗濯に行ってまいります。」と、
 
       かがとをつけて、背筋を伸ばして、敬礼して、 下着などをお預かりしたのです。
 
       すると、 横の寝台や、斜め向こうの寝台の、1号生徒の 岩本 健三郎生徒【和歌山県
 
       田辺中学 出身】 や、 安並 正俊生徒 【高知県 海南中学 出身】 などから、
 
       「 淵田生徒、 俺のもたのむぜよ。」と 三人分お預かりすることになったのです。
 
       私はどうせしないといけないことは、 文句を言いながらするのではなく、 素直な
 
        気持ちで受け取って、 笑顔でやろうと、 こう思いまして、 そのまま受け取った
 
        わけです。
 
 
 
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       休憩時間は、以前紹介したように、時間が限られていまして、手短に段取りよくしません
 
       と、戦後の現在のように当時、洗濯機なる便利な物は無いので、 冷たい手洗いでして、
 
       又紹介しようと思いますが、 海軍では、水を使わないように洗濯することを指導され、
 
       少ない水の分量での洗濯も当時は随分大変であったのです。
 
 
       洗濯場に、駆け足で行って、「 やれやれ、寒い中、どうして、わてが、こないなこと。」と
 
       思いながら、到着しますと、むこうに、前の分隊で、寝台を並べていました、井上 武男
 
       生徒【 茨城県 水戸中学出身 】の後ろ姿を見つけたのです。
 
       洗濯の最中のようで、数日ぶりに彼を見つけた私は、 「 おい、井上生徒。」と、声を
 
       かけようと、声がのどまで出かけた時に、 洗濯中の衣類を、ぱしーんと、投げつけて
 
       水桶を蹴り飛ばして、 おけが、ゴロンゴロンと、音をたてて、転げていったのでした。
 
 
 
【次回に続く。】