第860回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第859話  日比谷公園での大隈重信公の国民葬の事。   2014年6月30日月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
   大正11年1月17日 火曜日だったと記憶していますが、 朝、6時に起床ラッパが鳴ったのです。
 
 
 
 
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     「 プップップッブー、プップッブー、ブップップップップーーーー。」 ラッパ信号というのは、
 
     いろんな音色がありまして、 当初は覚えるのに大変でしたが、江田島海軍兵学校
 
     入学いたしまして、 約半年、 やっと、ラッパ信号が、意味がわかるようになりました。
 
     分隊伍長殿から、 「 起床動作はじめーーい。」と、 号令がかかりますと、急いで寝台
 
     をかたづけて、 
 
 
 
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     まだ、うすぐらい、 南側の練兵場に、 どっと、堰を切った、洪水のように、駆け足で
 
     分隊事に外に出るわけです。
 
      「  体操隊形にひらけーーーーぃ。」の号令で、 ざっと、音をたてて、 体操隊形に
 
     開きますと、 天皇陛下のおわす、東の宮城の方向に、拝礼し、 父母のおわす、各自の
 
     方向に向かって、拝礼した後、 海軍体操が始まるのです。
 
 
 
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          これを3年間やりますと、 次は、艦艇でも、陸【おか】の勤務でも、ずっと続けて
 
          行くわけです。
 
          朝が、苦手であった、井上 武男生徒も、この頃になると、なれたようでした。
 
 
 
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     当日の朝の訓示は、 校長の 千坂 智次郎 海軍中将が珍しく壇上に立たれまして
 
     私達に訓示があったのです。
 
      私は、なにか重要な発表でもあるのかと、心の中で思ったのですが、 じっと、千坂閣下
 
      を見つめたのでした、
 
      「 千坂 閣下に敬礼。」と、号令がかかり、 みな 一斉に敬礼したのです。
 
 
 
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      千坂閣下は、「 全員注目、 先日海軍省から通達があり、 本日17日に東京の
 
      宮城近くの日比谷公園において、先の内閣総理大臣大隈重信公の国民葬が執り
 
      行われる予定である。
 
      大隈元総理は、西洋列強との江戸幕府との間で締結された、不平等条約の改定など、
 
      外務大臣として取り組まれ、多くの功績を残され、 又、教育の重要性を唱えられ、
 
      早稲田の地に、 大学を作られるなど、多くの功績があった人である。
 
      全員、東の東京日比谷公園の方角に向かって、 黙祷を行う。」と、 お話があると、
 
      「ぜんたーーーーい、回れ右。」と、 号令がかかりまして、 私達は、 黙祷をしたのです
 
      ちょうど、日の出と重なりまして、 きれいでありました。
 
 
 
 
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      私の長男が、その後、 私の母校の奈良県立畝傍高校から、早稲田大学に進学する
 
      ことになり、 大隈重信公は、早稲田大学創立者として知られています。
 
      大正11年当時は、そのようなこと想像もしなかったのですが、 ずいふん
 
      立派な人であったようです。
 
 
 
 
 
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          日比谷公園に祭壇が設けられまして、 陸軍の近衛連隊の兵士や、政府関係者
 
           ご親族などが出席されまして、 多くの参列者であったそうです。
 
 
 
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          沿道にも、 多くの市民が、ならび、 みなさん、棺を見送られたと聞いています。
 
 
 
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          東京都文京区の護国寺の中に、埋葬され、 幕末、明治維新、 佐賀藩の官吏の
 
          中では、征韓論で、江藤新平さんが去った後は、 大隈さんが代表格で、薩長
 
          派閥の中で、 はじめて、それ以外で、内閣総理大臣になった方でした。
 
          大正11年と言う年は、 日本がどんどん沈んでいく、 そういう年でありました。
 
 
 
【次回に続く。】