第860回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正11年1月17日 火曜日だったと記憶していますが、 朝、6時に起床ラッパが鳴ったのです。
「 プップップッブー、プップッブー、ブップップップップーーーー。」 ラッパ信号というのは、
入学いたしまして、 約半年、 やっと、ラッパ信号が、意味がわかるようになりました。
分隊伍長殿から、 「 起床動作はじめーーい。」と、 号令がかかりますと、急いで寝台
をかたづけて、
まだ、うすぐらい、 南側の練兵場に、 どっと、堰を切った、洪水のように、駆け足で
分隊事に外に出るわけです。
「 体操隊形にひらけーーーーぃ。」の号令で、 ざっと、音をたてて、 体操隊形に
開きますと、 天皇陛下のおわす、東の宮城の方向に、拝礼し、 父母のおわす、各自の
方向に向かって、拝礼した後、 海軍体操が始まるのです。
これを3年間やりますと、 次は、艦艇でも、陸【おか】の勤務でも、ずっと続けて
行くわけです。
朝が、苦手であった、井上 武男生徒も、この頃になると、なれたようでした。
当日の朝の訓示は、 校長の 千坂 智次郎 海軍中将が珍しく壇上に立たれまして
私達に訓示があったのです。
私は、なにか重要な発表でもあるのかと、心の中で思ったのですが、 じっと、千坂閣下
を見つめたのでした、
「 千坂 閣下に敬礼。」と、号令がかかり、 みな 一斉に敬礼したのです。
千坂閣下は、「 全員注目、 先日海軍省から通達があり、 本日17日に東京の
行われる予定である。
外務大臣として取り組まれ、多くの功績を残され、 又、教育の重要性を唱えられ、
早稲田の地に、 大学を作られるなど、多くの功績があった人である。
全員、東の東京日比谷公園の方角に向かって、 黙祷を行う。」と、 お話があると、
「ぜんたーーーーい、回れ右。」と、 号令がかかりまして、 私達は、 黙祷をしたのです
ちょうど、日の出と重なりまして、 きれいでありました。
大正11年当時は、そのようなこと想像もしなかったのですが、 ずいふん
立派な人であったようです。
日比谷公園に祭壇が設けられまして、 陸軍の近衛連隊の兵士や、政府関係者
ご親族などが出席されまして、 多くの参列者であったそうです。
沿道にも、 多くの市民が、ならび、 みなさん、棺を見送られたと聞いています。
派閥の中で、 はじめて、それ以外で、内閣総理大臣になった方でした。
大正11年と言う年は、 日本がどんどん沈んでいく、 そういう年でありました。
【次回に続く。】