第878回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第877話  山縣 有朋公の死 の事            2014年7月18日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
    大正11年1月30日、前文で、2人の加藤と呼ばれる人達が、次の内閣総理大臣
 
見据えて、 多数派工作を行っている最中、 三菱財閥の娘婿、 加藤 高明 議員が
 
支援を期待していた、 山縣 有朋 侯爵が、 月が変わって、2月1日、 お亡くなりに
 
なったのです。
 
  
 
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                       【 晩年の山縣有朋 侯爵 】
 
 
    長州、萩の百姓の倅から身を起こし、 奇兵隊を率いて、戊辰戦争に参加、 元老でありました。
 
    以前紹介したように、 幕末当時から、 ワイロ、 金銭スキャンダルが多く、 伊藤 博文
 
    さんから、叱責を受け、 そのたびに、伊藤さんがもみ消しに走っていたのですが、
 
    つまり、 自分を経由する話は、 多額の金銭を要求し、 そのお金で、配下の派閥に
 
    配ったり、 また、趣味の庭造りに、惜しげもなく、お金を突っ込んでいったのです。
 
    そして、 自分を経由しないお話には、とことん横やりを入れていき、 混ぜクリまわして、
 
    反対する人でした。
 
    反対されて、 もめたらいけないので、みんな山縣さんに、挨拶に行くようになっていった
 
    のは、自然の成り行きでありました。
 
    
 
 
 
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             【  建軍以来  陸軍の重鎮として、ワンマン支配を続けた。】
 
 
      山縣有朋公に面会するのは、一苦労で、 配下の陸軍の将官などを仲介人に
 
     しないといけないわけで、 つれそって、 面会に行くと、「 おみゃーー、なんぼ
 
      用意【金を】できるんなら。」と、  こんな感じで、 何事も、 裏の資金が必要だった
 
     様です。
 
     明治天皇も、山縣 有朋公の行動には、眉をひそめ、毛嫌いされていたようですが、
 
     山縣 有朋公の長州派閥は、軍人、官僚の中では、 巨大な勢力で、手がつけられ
 
     なかったようです。
 
 
 
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                 【  まだ、 意識がはっきりしていた当時の大正天皇陛下 】
 
 
         大正天皇陛下は、 山縣有朋公と、対立は避け、何事も人任せであったようですが、
 
         大正10年に、摂政に就任された、東宮裕仁殿下 【 後の昭和天皇】は、山縣
 
         有朋公と、対立していくことになります。
 
         どういうことで、対立していったかというと、 お后問題でした。
 
 
 
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                 【  東宮摂政 裕仁殿下   のちの、 昭和天皇陛下。 】
 
 
          当時、皇室では、東宮裕仁殿下のお后を選定するに当たり、 皇族から選ぶ
 
          というのがしきたりであったようで、 後の皇后陛下になられるのですが、
 
          皇族の中の良子様にお后が内定していたのです。 
 
 
 
 
 
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           【 大正時代の 裕仁殿下【昭和天皇陛下】と、 良子 妃殿下 】
 
 
          山縣 有朋公は、 自分になにも相談なしに、 宮内省が一方的に、決めたお后
 
          候補に腹を立て、  「 そのお后には、色盲の遺伝があるので、白紙にして、別の
 
          お后にするよう。」 と、宮内省に圧力をかけてきたのでした。 
 
          これを当時は、宮中某重大事件と呼んでいました。
 
         このようないきさつで、 東宮裕仁殿下も、 山縣 有朋公の事を良く思われて
 
        いなかったようです。
 
        このお后問題は、 東宮殿下が、 「 良子 本人に色盲などなく、 その両親にも、
 
        そのような異常は見られず、 言いがかりである。」として、 以前紹介したように、
 
        大正天皇は、脳の病で、療養中で、 東宮殿下自らこの話に乗り出されて、
 
        山縣有朋公と随分もめたそうです。
 
 
        そのような、 権力とお金に固執した人でしたが、83歳で、他界されたのです。
 
 
 
 
 
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             【  三菱財閥の 実質オーナーの 加藤 高明 元外務大臣 】
 
 
 
          配下の議員が、100名程度で、 内閣総理大臣になるには、心許なかった
 
          加藤高明 議員は、 陸軍の重鎮の死去を受けて、 もう一つの陸軍の派閥、
 
          皇道派の母体となっていく、 上原 勇作 陸軍元帥の派閥に接近していくことに
 
          なっていくのでした。
 
 
【次回に続く。】