第880回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正11年2月6日の月曜日であったと思いますが、 この日、多くの人の人生を変えていった、
日本経済が、 破綻していく原因となっていった、 ワシントン軍縮条約が、制式に調印された
のです。
つまり、日本は新しい戦艦を建造できなくなってしまい、 加賀、天城、赤城などの
建造途中の艦艇を、 スクラップ処分しないといけなくなったのです。
そして、 それらに乗り組むために、養成していた、水兵や、海軍将校を、整理しないと
いけなくなっていったのです。
アメリカやイギリス、フランスなどは、日本がこのまま膨張し、いずれ敵対して来る前に
制限を設けて、歯止めをかけようとしていたのです。
世の中が、この軍縮条約で、大騒ぎになっていた頃、 2月9日 木曜日に、山縣 有朋公
の国葬が、執り行われたのです。
ちょうど、山縣 有朋 公の国葬が執り行われていた頃、私達は、 閲兵訓練の
合間に、水雷の授業を受けていたのです。
当時の私は、 練兵場で小銃を担いで、 怒られ怒られ、行進の練習をさせられるより、
椅子に腰掛けて、 水雷の授業を聞いていたほうが、楽しかったのです。
当時、過去の戦訓話を聞くのが大変好きでありまして、 過去の武勲話を聞いて
いずれは、我も、一旗あげんと、 野心があったのです。
そして、入船海軍大尉殿の水雷艇の講義が始まったのでした。
【次回に続く。】