第889回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第888話 海軍兵学校の土俵の事。        2014年7月28日 月曜日の投稿です。
 
 
 
       読者のみなさんにおことわりのご案内。 明日、100時より、長時間システム工事の為
 
       投稿が出来なくなるとのことで、 すこし明日予定の記事を早めに投稿させていただき
 
       ます。
 
 
 
 
 
 
 
     大正11年3月7日 火曜日であったと思いますが、海軍兵学校の土俵で、角力 【すもう】
 
     の、分隊対抗試合が行われたのでした。
 
 
 
 
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        通常は、6月頃、少し温かくなって、相撲の授業があるのですが、まだ潮風が
 
       冷たい3月初旬、 兵学校の土俵にて、分隊対抗試合が行われたのでした。
 
       当時、記憶によりますと、 武徳殿の少し行ったところに、土俵が、野外なのですが、
 
       三面作ってありまして、ここで、試合が行われたのです。 
 
 
 
 
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         この試合、初めからダメであったというか、戦意が喪失してしまったというか、
 
        我が分隊全員ですが、 土俵が三面しかないので、 第17分隊となると、 1個分隊
 
        約45名でありますので、他の分隊の試合を随分と長く見学するようになるのです。
 
        「 良いではないか、 見学して、技の勉強ができるではないか。」と、言う人も
 
        いらっしゃると思いますが、 実はその待ち時間が大変でありまして、剣道や相撲を
 
        稽古されたことがある人は、よくご存じと思いますが、 そんきょの姿勢で、ずっと
 
        中腰で背筋を伸ばして、見学しないといけなかったのです。
 
 
 
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                      【  海軍兵学校内での、そんきょの姿勢の様子。 】
 
 
          ふんどし1丁、 素っ裸の状態で、初めは良かったのですが、しばらくしますと
 
          西の海側から、冷たい潮風が、 「 ひ--ゅーーー、ぴゅーーー。」と、吹いてきま
 
          して、 「1番やりをつけてこい。」と、ネジを巻かれた、となりの先鋒 木梨 鷹一
 
          生徒殿が、 鼻水をすすりながら、辛抱されていたのですが、ついに、くしゃみが
 
          とまらなくなり、 他の分隊の生徒も、 足首が痛くなるは、 風邪をひくは、
 
          はなたれ小僧になってしまったのです。
 
          随分待たされて、 鳥肌が立ち、 体が硬くなっているところに、出番が来るわけで、
 
 
 
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           「 第17分隊  先鋒、土俵入りせよ。」 と、 大声で行司役より、叫び声が
 
           上がると、 となりの木梨生徒殿の顔を見ますと、 震えが来て、熱があるのか、
 
           蝋燭のような白い鳥肌になっていまして、 私が、「 木梨生徒殿、大丈夫で
 
           ありますか。」と、声を掛けると、「  鼻水がじゅるるるる。」と、出る始末。
 
          これでは、 良い事になりません、 土俵に上がられたのですが、「 はっけよーーい
 
 
 
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         のこった、のこったーーーー。」と、行っている間に、 相手の張りを顔にもろに
 
         受けられまして、 顔が上に上がったところを、 左手でのどを突かれまして、
 
         後に、倒れ込んでしまわれたのでした。
 
 
         私が当番を務める、 上杉 義男 1号生徒殿が、「 わりゃ、鷹一 なにしょうるんなら。」
 
         と、大声を上げる中、 私と、次の順番の西澤 慎六生徒と共に、 土俵上の
 
         木梨生徒殿を助けに行ったのですが、 鼻から血を出されていて、 のどを突かれて
 
         声も出ない様子、 ほうほうの体で、土俵より降りたのです。  
 
         私も、寒いのやら、 足首が痛いやらで、 次の土俵に上がったのでした。
 
 
         「 次鋒 淵田 美津雄。」 と、大声で叫びまして、 ずいっと、腰を落としたのです。
 
 
 
   
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        ちょうど私が震え震え、海軍兵学校の土俵で相撲を取っていた頃、 神奈川県の
 
        横須賀では、 とんでもない計画が、 イギリス海軍航空士官の指導の下、
 
        横須賀を舞台に、日本海軍航空隊史上、 初めての試みが、行われようとして
 
        いたのでした。
 
 
【次回に続く。】