第890回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第889話 霞ヶ浦海軍飛行講習のセンピル飛行教導団の事。2014年7月30日 水曜日の投稿です。
あって、ここの池の湖畔で、初めておかしなことを言う男と会ってーーー云々というお話は、読者の
みなさんに以前紹介しました。
招聘して、始まったという、 当時の新聞を読んで、「 これからは、航空機の時代だ。」と、源田が
言うものですから、 当時、「 まだ、海軍に採用されてもない身の上で、おかしな事を言うやっちゃ。」と、
私が思っていたというお話を紹介したのですが、横須賀のお話をする前に、わかりやすく、前後関係の
お話を紹介したいと思います。
私達は、戦後で言う、第一次世界大戦の事を、 当時は、欧州大戦と呼んでいたのです。
陸軍は、明治の文明開化以来、ドイツ陸軍を模範としていたのですが、 この欧州大戦で、ドイツが
フランスに敗れ、降伏してしまい、今度は、戦争に勝ったフランス陸軍を模範とすることにして、たしか
大正8年でしたか、 フランスから法外な大金を積んで、 フランスの飛行機を買い付けて、フランス
陸軍飛行隊を招聘して、飛行訓練を始めたのです。
これに、海軍は影響を受けて、 同盟先のイギリス海軍に初めは、選抜した将校を、イギリスの
飛行学校に留学させようと計画するのですが、 金子 養三 海軍中佐が、 大金をはたいても、
陸軍のように、 イギリス人をまねいて、日本で飛行教育をしようと、意見具申していくのです。
少数を、留学させるより、 イギリス人を招いて、 日本国内で大勢を一編に飛行教育した方が、
早くて安上がりであると、力説されたのです。
当時、山本 権兵衛 海軍大将も、 加藤 友三郎 海軍大将も、この話を聞いてもっともな事と、
この意見具申を了承し、金子 海軍中佐が、推薦する、 水上機も陸上飛行機も運用に適している、
航空基地の建設が、大正9年から始まり、 ここに、ドイツからフランス大使館駐在武官であった
井上 成美 海軍中佐【後の、海軍大将】が接収してきた、 大型飛行船の格納庫なども移築建設
されまして、 湖畔を埋め立てて、飛行場なども整備されていったのです。
翌年の大正10年7月に、つまり、私達が海軍兵学校の入学試験を受験していた頃、ここの
海軍大佐を団長とする。飛行教導隊が来日して、 訓練が始まったのです。
あわせて、イギリスから、 多数の飛行機を、けたはずれた高い金額で日本海軍は買わされたのです。
つまり、 飛行機を買うので、乗り方を教えてほしい、 そのかわり、日本海軍は、 フランスから
飛行機を買わず、イギリスから買うという、 そういう約束であったようです。
イギリスの方としても、 フランスに飛行機を売り込みを先を越され、 日本陸軍相手に、大もうけされ、
日本海軍も持って行かれては、 商売の時機を逸すると考えたようです。
太平洋戦争こと、 大東亜戦争で、負けていった原因のひとつの、飛行機の操作方法、部品の相違
から、 製造、補給を困難にしていった、 原点が出来上がっていった時代であったのです。
日本側は、 霞ヶ浦航空部長に、 田尻 唯二 海軍少将 【戦艦金剛艦長などを歴任
のちの海軍中将】 を筆頭に、陣容を整え、 多くのパイロット志願者が飛行講習を
受けたのです。
この飛行講習員の中には、後の 大西 瀧次郎 海軍中将なども、含まれていたのです。
それ以前の準備部隊が稼動し、 イギリス人のパイロットの指導で、 教育が始まった
のです。
そして、訓練と平行して、日本海軍は、イギリス人造船技師のフレデェリック、ラシランド
神奈川県の横浜市の浅野造船所で大正8年から開始し、大正10年11月13日船体を
進水させ、 その後、 横須賀海軍工廠に移動させて艤装工事を進めていきます。
これらの造船所での作業は、 イギリスには筒抜けでして、 なにぶん、世界で
初めての事なので、艦載機の離着陸のデーターなど、当時は皆無であったのです。
イギリスも、日本海軍のお金で日本人に実験させ、 データーを持ち帰り、 参考に
しようとしていたようです。