第892回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第891話 日本海軍で初めて雷撃に成功したバイロットの事。 2014年8月1日金曜日の投稿です。
以前、みなさんに魚雷というものが、有人自爆ボートから、無人自爆ボートに、そして、
オーストリーの海軍軍港の工場で、イギリス人によって、魚雷が日本の慶応3年に開発され、
その後、水雷艇が出来ーーーーー云々というお話を紹介しました。
こういう、考えが生まれ、私が奈良県立畝傍中学に在校中の大正7年に、 航空機による、
魚雷投下実験が行われたのです。
この時のパイロットが、 桑原 虎雄 海軍大尉殿【 海兵37期卒 後の海軍中将】でした。
つまり、日本で初めての魚雷投下は、 桑原 海軍大尉殿が、行われたわけですが、
この時のデーターでは、 輸入したイギリスの航空機では、朱式魚雷などを搭載するのには
非常に機体が強度がたらないということがわかったのです。
魚雷は、爆弾に比べて重量がありますので、 1から、設計しようとこうなりまして、
日本国内に、航空機を設計できる人がいなかったのです。
三菱では、イギリスのソッピーズ社のハーバート、スミス技師に、高額の報酬を支払い外注したの
ですが、 試作が出来上がったのが大正10年秋頃であったようです。
みなさん、 写真を拡大すると、当時の整備員が翼の上で作業していますが、
地上から、 翼の上まで6メートル程度あり、 3枚翼の複葉機でありました。
重たい魚雷を抱いて飛ぶわけですから、確実に揚力を得て、飛び立たないと、
重量超過で突っ込みますと、 魚雷が爆発してしまいます。
風を受けやすいように、 3枚の複葉機となり、 飛行機の骨格も堅固に設計
されていました。
エンジンは、木製2枚プロペラの ネイピア、ライオン液冷W型12気筒エンジンで、
450馬力を発生し、 試験飛行では、 速度209キロ 航続距離約400キロ
乗員1名で、すべてを操作したのです。
当時、 模範とするものは皆無の状態で、手探りの設計の雷撃機でした。
大正10年に、試作機が出来たので、 10式艦上雷撃機と名称が決まったのですが、
例の以前紹介した、軍縮条約の関係で、こちらも、試作の段階で、 それより先に
進まず、作業が中断していたようです。
接近し、挺進攻撃の後、高速で離脱する。 こういう考えであったようです。
ところで、日本で初めて雷撃を成功させた、桑原 虎雄海軍大尉殿は、 どういう人かと
読者のみなさんにご紹介しますと、 以前、山縣 有朋公の番頭で、朝鮮総督、
原 敬 内閣総理大臣の前の総理大臣 寺内 正毅 陸軍大将をご紹介しましたが、