第910回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正11年の4月16日の日曜日のこと、私達は、川口生徒倶楽部のおばさんが、メバルの
煮付け料理を昼の時間に出していただいて、舌鼓をうっていると、 同じ分隊の宮地 美枝生徒
【 のちの海軍中佐 高知県出身】が、私に向かって、「 貴様、魚の食べ方が下手くそぜよ。」と
言う物ですから、「 どこが、まずいねん。」と、言いますと、 「 貴様は、魚の上ばかり食べて、
腹や、ほほの身を、ひとつも食べてないではないか、もったいない。」と、こう指摘を受けたのです。
せっかく、人が、気分よく魚を食べているのに、 ヘンなことを言うやっちゃと、むっとしていると、
川口のおばさんが、 「 生徒さん、 こうやると、おいしいんよ。」と、 そばにそっとよってこられて、
すると、化粧の匂いと言いますか、 ご婦人独特の匂いがして、 私の箸を持っている右手をそっと
やさしく手をとりまして、 私は、躊躇していると、 「 めばる いうんは、 こうしてね、 ここ、ほほの
この部分を、 こうして、いただくと、美味しいけーね、 ほんでね、 骨がましいけぇ、腹は嫌いな
人が多いけーどが、 こぎゃーにして身をとると、まだまだたべられるけぇ、 たべてみぃ。」と、 ご指導
いただきますと、 普段、ご婦人方には縁のない身の上、 ゆでだこの様に赤い顔になってしまい、
みんなに大笑いされたのでした。
そんな話をしていると、おばさんが、 「 そりゃーそうと、なにゅー、呉のほうから、憲兵隊と
巡査がようけ江田島に来てから、「 変な人はおりゃせんか。」とか、 ここ数日聞いてまわりょうるん
じゃがね、変なこと聞くけど、兵学校でなんかあるん。」と、 聞く物ですから、「 はてーーー、
なんも、知らされとらんのんや。」と、言うと、 渥美生徒が、「 おばさん、あのさー、そんなに大勢
の憲兵隊がこちらに上陸してきているのですか。」と、聞くと、 「 そりゃーーそうじゃん、ざっと、100
人以上、おるおもうんよ。」と、言うので、 私達は、顔を見合わせたのです。
違うのは、日本の男子には徴兵制というのがありまして、 当時、記憶によると、事前に徴兵検査
と言うのがあるのです。
そして、 身体障害者でない人は、徴兵検査に合格して、 20歳になりますと、最寄りの
指定の陸軍の連隊に、2年間兵役に就かないといけなかったのです。
社会生活】に戻って来まして、 ある人は、警察官になったり、 いろんな仕事に就くわけです。
そういうことが、明治の初めから、 40年も続きますと、 一般社会の社会人は、ほとんどが
退役軍人という形になるわけです。
そうしますと、 地域、地域で、退役軍人の会なるものが当時多数出来まして、
一般社会でも、 軍人時代の階級が、 娑婆でも、序列をつけるようになっていったのです。
例えば、 同じ近所でも、 となりは陸軍軍曹の家で、 こちらは、陸軍一等兵の家としますと、
理不尽なことをされましても、文句が言えないような、 そういう社会になっていったのです。
そういう、大正時代の一般社会において、 陸軍の憲兵隊は、 別格の存在となっていき、
一般の警察官も、陸軍の退役者が多かったので、 憲兵隊と聞くと、頭を下げて、
ぺこぺこしていくと、 こういう現象が起きていき、 だんだん、憲兵隊は、陸軍の中
の警察組織の垣根を越えまして、 一般社会にも、出ていくようになったのです。
その横暴は、目に余るようになっていきます。
彼等につかまって、 ひっ張られますと、 竹刀で、 叩くは、突くは、当たり前で、
顔の形が変わるほどの暴行を加えるのは、日常茶飯事で、 容疑者が死亡しても
通常の警察署では、 手が出せなかったのです。
それほど、 恐れられた組織でありまし、 そういう組織に入った、若い連中が、
軽はずみな行動をとって、暴言を吐いたり、越権行為や、暴力沙汰を起こすことが、
多かったのです。
私達は、 食後のお茶をよばれながら、「 さてーーー、 なにもしらへんのや。」
と、いいながら、 兵学校の周囲で、 不穏な動きを聞いて、 当時、心配したのでした。
【次回に続く。】