第941回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第940回  陸軍参謀総長 上原 勇作 陸軍元帥のこと。  2014年9月19日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
              
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                     【 陸軍参謀総長  上原 勇作 陸軍元帥 】
 
 
 
       大正11年2月に山縣 有朋 公が死去されて、陸軍で1番の実力者で、難しい
 
       爺さんの代名詞の人物が、 上原 勇作 陸軍元帥でありました。
 
 
 
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               【 シベリア撤退反対派に 暗殺された、 原 敬 元内閣総理大臣 】
 
 
 
 
       昨年の11月に、東京駅で暗殺された、原 敬 元内閣総理大臣も、なんとか、コントロール
 
       しようと、 上原 勇作 さんを、子爵に推薦したり、 元帥に推薦したり、あの手この手
 
       で、機嫌を取って、何とかしていこうとしていたのは、以前紹介しました。
 
       上原 勇作 さんと言う人は、 工兵畑の人で、 日本陸軍の工兵の父と呼ばれる
 
       程度、 陸軍に貢献し、 山縣 有朋 侯爵と、喧嘩をしないように、 自分の勢力を
 
       徐々に広げ、 陸軍 皇道派  【こうどうは】 と、呼ばれる右派軍人の派閥の母体
 
       を作った 派閥のリーダーでもありました。
 
 
 
 
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          西園寺 公望 公が、内閣総理大臣であった頃、 上原 勇作 陸軍大将は、
 
          陸軍大臣をしていて、 予算など、陸軍の言う事が通らないと知ると、腹を立て
 
          当時、 天皇陛下のおあします、宮城に出かけて、 陸軍大臣の辞表を、内閣
 
          総理大臣を飛ばして、天皇陛下に直接渡して、 陸軍大臣を辞任し、 以後、
 
          陸軍省から、大臣を出さないと、ヘソを曲げて、西園寺総理に、 「 陸軍は、天皇
 
          陛下の軍隊であって、 内閣総理大臣の軍隊ではない、 指図がましい事は、 受け
 
          入れられない。」と、総理大臣など、へのそうろう と言うような行動に出たのです。
 
 
 
 
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           当時の若い現場の兵士や、 陸軍将校から、 「上原陸軍大臣、痛快なり。」
 
           と、随分評判になり、 末端の兵士まで、 「陸軍は天皇の軍隊でーーー。」
 
           と言うセリフが浸透し、 コントロールがきかない、陸軍組織の始まりの様な
 
           原因になっていったのです。
 
           陸軍省が、 大臣を出さないという一点張りで、 貫いて、にっちも、さっちも
 
           行かなくなり、 閣議署名も出来なくなり、 帝国議会もストップして、当時
 
           西園寺内閣は、総辞職したのです。
 
 
 
 
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                      【  当時の陸軍大臣 山梨 半造陸軍大将 】
 
 
 
 
         そのような経緯で、 大正11年6月後半頃、陸軍大臣であった、山梨 半造 
 
         陸軍大将も、 陸軍参謀総長 上原 陸軍元帥に逆らうようなことをすると、
 
         陸軍を追い出されてしまうため、 静かに、顔色をうかがうしかなかったのです。
 
 
 
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                    【 当時長州閥の実力者 田中 義一 陸軍大将 】
 
 
 
         当時、 上原元帥と正面切って、対等に話せるのは、長州閥という巨大派閥を
 
         山縣 有朋 公から、継承していた、 田中 義一 陸軍大将程度であったのです。
 
 
 
 
         
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            上原 勇作 陸軍元帥の派閥には、 若い血気盛んな陸軍将校や、どちらかと
 
            言うと、 行動していくという、右派 と呼ばれる軍人が集まっていき、 東京駅
 
            で、原 敬 内閣総理大臣を暗殺する計画を立て、 犯人を用意し、 後で
 
            糸を引いていたのは、シベリア撤退反対派の上原派の陸軍幹部であったと
 
            言われています。
 
 
 
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                       【  当時の陸軍参謀本部 】
 
 
 
 
            陸軍参謀本部を訪れた、 宮内大臣 牧野 伸顕 子爵は、 西園寺内閣の
 
            当時の文部大臣で、顔見知りであった 牧野 宮内大臣は、 上原 勇作元帥に、
 
            当時、摂政 東宮 裕仁殿下、 つまり皇太子殿下の内意を、お伝えに
 
            陸軍参謀本部に出向かれたのです。
 
 
 
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                    【  宮内大臣当時の 牧野 伸顕 子爵  古写真 】
 
 
 
         牧野 宮内大臣は、「  主上には、だだ、ただ、 帝国臣民の困窮を心配なされ、
 
         陸軍のシベリア駐留のため、 業者が先を争い、食料物資を買い付け、舞鶴
 
         小樽などに、 米、味噌、など、 生活必需品を買い集め、 陸軍が買い求めて
 
         浦塩に送り、 部隊に、途方もない金額の物資を送る、 結果、市中では、米が
 
          6倍以上に価格が跳ね上がり、 庶民の暮らしが成り立たない始末。
 
 
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            結果、 一昨年は、全国的な、米騒動と呼ばれる暴動に発展し、 鎮圧のため
 
            国軍が投入される始末、 ますます、臣民の暮らしは、 先細りする始末、
 
 
 
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           多くの人々が、苦しみ、地方の山村では、生活に困窮し、娘を金銭で売り
 
           その費用で、 暮らしていく日々とか、 なにごとも、陸軍のシベリア出兵から
 
           その原因になっており、 国庫は、破綻状態に近く、 戦時国債も、 欧米は
 
           もとより、世界各地に多額の負債が発生し、利払いにも困り果てたる状態、
 
 
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          【当時の 英米仏の首脳  日本を押さえ込もうと陰謀をめぐらせていた。 】
 
 
 
 
           昨年の、海軍の軍縮も、 日本が独自に軍艦を建造するのをやめさせようと
 
           米英がしくんだ陰謀にて、 従わざる時は、 まず 借金を返済せよと、
 
           返済の催促、 耐えだきを偲んでの、 軍縮交渉であったのです。
 
 
 
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         【  当時ワシントン軍縮条約 国際会議 日本全権 加藤 友三郎海軍大将】
          
 
 
 
            その交渉の際、 原内閣時に、 シベリア撤退の合意は、当時各国と合意して
 
           日本だけが撤退せず、駐留を続けている状態にて、 何度も圧力をかけられ
 
           加藤全権は、「 条件が整い次第、撤退を履行する。」と、 返事をされたわけ
 
           です。
 
 
 
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                        【  ワシントン軍縮条約 国際会議 】
 
 
 
 
           このまま、 シベリア、沿海州、 樺太に、 駐留を続けた場合、 国庫が破綻し、
 
           庶民はどん底の暮らしに落ちていき、 大日本帝国の国際的信用は地に落ち、
 
           外国の誰からも信用されなくなるであろう。」というのが、 摂政 東宮 裕仁殿下
 
           の御心であります。」と、 こんな感じのお話があったようです。
 
 
 
 
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           当時、私達は、 「軍縮を進める加藤 友三郎め、けしからん。」と、 一部を見て、
 
           軍縮を恨み、海軍を破綻に追い込んでいくようなことを推進する、 加藤 友三郎
 
           内閣総理大臣に大変な反感を懐いていたのですが、 よく考えて、 目で見て、
 
           耳で良く聞いて、 心で国家全体のことをよく考えてみますと、 日清戦争、日露
 
           戦争で、西洋諸国に、膨大な借金を作り、  さらに、その上に、戦争国債
 
           発行し続けて、 当時天文学的な負債に、日本の借金は膨らんでしまい、 欧米
 
           から返済の圧力をかけられていたのです。
 
           関西風で言えば、 追い込み取り立ててにあっていたわけです。
 
 
 
 
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           【  ウラジオストックにて、 各国武官と挨拶する、 大元陸軍大将 】
 
 
 
 
 
           軍縮条約に、入らなければ、借金をすべて返済しろと、 アメリカなどに、
 
           金融圧力をかけられていたわけです。
 
 
 
 
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           この度のシベリア出兵も、 イギリスからの派兵要請で、始まった出兵で、
 
           その費用は、 イギリスに国債を買ってもらい、 その費用で当初は派兵して
 
           いたのですが、 だんだんと、ずるずると長引き、 大蔵省の国庫は、利払いも
 
           出来なくなる程度、 破綻寸前であったのです。
 
 
 
 
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   【 当時の浦塩派遣軍の各国の司令官 記念写真  中央が浦塩派遣軍 司令官 
 
 
    大谷陸軍大将   右の背が低い人が、 当時参謀長であった 由比 陸軍中将  】
 
 
 
 
 
           これらの事は、 さらにその後の経済破綻の原因となり、金融恐慌の原因と
 
           なっていくのでした。
 
           牧野 宮内大臣の 上原陸軍元帥に対するお話は、随分長く続いたそうです。
 
 
 
      【次回に続く。】