第943回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第942話  上原 勇作元帥の方針転換のこと。   2014年9月21日 日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
                        【  当時の陸軍参謀本部  古写真  】
 
         
          大正11年6月後半、陸軍参謀総長 上原 勇作元帥は、 配下の将官から
 
         陸軍長州閥の 田中 義一 陸軍大将が、 元内閣総理大臣、 西園寺 公望 公
 
         と手を結んで、 陸軍内で多数派工作を行っていると知ると、 手を替えて、違う
 
         作戦に撃って出たのです。
 
 
 
イメージ 4
 
 
 
 
         以前の、陸軍大臣辞任騒動の時は、 強力な長州閥の山縣 有朋公が後楯で、
 
         足元を気にせず、大立ち振る舞いをしたのですが、 今回は事情が違い、陸軍の
 
         統制派 【とうせいは】 と呼ばれる陸軍の派閥の母体となっていく、長州閥という
 
         軍人、官僚の派閥が、 加藤 友三郎 内閣総理大臣側に付いていると言う事で、
 
         形勢が悪いと判断し、 正攻法にとって変わったのです。
 
 
 
  
イメージ 2
  
 
 
           上原参謀総長は、 極寒のシベリア内陸部の占領地域は放棄しても、
 
          沿海州、 樺太、 ウラジオストックなどの海岸線を、占領を続け、 日本人
 
          居留民や、 ロシア白軍の反共産主義の人達を保護し、気象条件が悪い部分を
 
 
イメージ 15
 
 
 
 
          すてて、 主要都市の占領継続し、 共産主義勢力の防波堤にすべきだと、 
 
          主張したのです。
 
           欧米人や、日本人や、ロシア人からも、 共産武装勢力から人々を守る為に、
 
           日本陸軍の必要最小限の兵力は、現地に必要であると力説したのです。
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
           当時の加藤 友三郎 内閣総理大臣は、 すべての場所からの陸軍の撤退を
 
           主張していたのですが、 陸軍大臣の 山梨 半造 陸軍大将から、 実際に、
 
           ウラジオストックなどには、 多くの日本人が住んでおり、教会、寺社、銀行、
 
           缶詰の工場など、 多数が存在し、 現実に合わせた、柔軟な政策が必要で
 
           あるし、 合わせて、治安を安定させ、 欧米人の保護も行うので、西洋諸国
 
           にも、ヒザを交えて説明し、理解を求めてはどうかと、主張し、最後は、 摂政殿下
 
           の御政断を仰ぐことになったのです。
 
 
 
 
イメージ 5
 
 
 
                     【  当時の外務省の使節団 古写真 】
 
 
 
 
           これらの事は、 日本と、 当時のティーヴィーエール共和国との間で、
 
           日本人や、 反共産主義のロシア人の保護など、 国際法に基づいて、外務省が
 
            交渉に当たり、 尼港事件の損害賠償なども、相手国と交渉し、報告を待って
 
            再度、 御前会議が開かれることになったのです。 
 
 
 
 
    
イメージ 6
 
 
 
                      【   当時の日本陸軍の占領地図  】
 
 
 
         当時、陸軍が主張するように、 シベリア大陸を制覇する覚悟で、 バイカル湖
 
         付近まで占領し、 樺太も全部日本が占領していたのです。 
 
         これを、現在まで占領を続けて、統治していれば、日本は、もしかしたら、 太平洋
 
         で、大東亜戦争など、起こしていかなかったかもしれません。
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
                【   当時の共産ゲリラに爆破された、 日本の鉄道の古写真 】
 
 
           反面、 占領地域では、貧しい農民が、 伝え聞く共産党の都合がよい宣伝を
 
           信じて、 実際は略奪の恐怖政治だったのですが、 おろかにも、日本に対して
 
           ゲリラ活動を行い、 多くの被害が出ていたが現状であったのです。
 
 
 
イメージ 8
 
 
                           【  樺太の日本の占領地域 】
 
 
          当時の上原 勇作 陸軍元帥の考えは、 尼港事件の賠償金を請求し、
 
          その問題が、解決されるまで、樺太を保証占領し、 出来れば最北端の
 
          樺太油田を、日本の管理下に置きたいという考えと、 日本人が、諸事情の結果、
 
 
 
イメージ 9
 
 
 
           多く住み着いている,ウラジオストックなどは、日本の管理下に置いておきたい
 
           と、当時考えていたわけです。
 
 
          
イメージ 10
 
 
             また、 野党 憲政会の三菱財閥のオーナー、加藤 高明 議員や、
 
            他の財閥なども、 小樽や、舞鶴や、ウラジオストックに、営業所や、支店、
 
            大きな倉庫などを建設し、 随分と設備投資を投資していたのです。
 
            その関係から、 陸軍参謀本部の考えに同調していたのです。
 
 
 
 
 
イメージ 11
 
 
 
             シベリア各地に駐留していた陸軍の各師団は、個別に、停戦和平交渉を開始し、
 
             ティーヴィーエール共和国の軍隊との、停戦を結んで、とりあえず、沿海州
 
             引き上げる準備が始まったのです。
 
 
 
イメージ 12
 
 
 
               そして、停戦交渉の実際は、 各師団とも、別々に個別行われていったので、
 
               大変難航していったと、 伝えられています。
 
 
            戦後の現在から考えると、 ウラジオストックや、樺太大陸などが、そのまま、
 
            日本の領土として、残っていたら、漁業資源の確保や、地下資源など、多くの
 
            富が日本にもたらされていたかも知れませんが、 私達が海軍兵学校
 
            生徒であった、 大正11年当時は、 1年の大半が、 零下35度から60度と
 
            10月から5月までは、 氷に閉ざされ、 6月から8月は、 雪が解けて
 
           
 
イメージ 13
 
 
            地面が水浸しとなり、 産物と行っても、 木材と、 水産物の缶詰程度で、
 
 
 
イメージ 14
 
 
 
      当時の内閣総理大臣 加藤 友三郎 海軍大将は、 早くこれらの占領地から、
 
      陸軍を内地に戻し、 戦費を減らして、 破綻状態の大蔵省の国庫をなんとか
 
      しなければ、日本は破綻すると考えていたのでした。
 
 
 
【次回に続く。】