第946回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第945話 加藤内閣の虜囚教育の事。         2014年9月24日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
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                     【内閣総理大臣   加藤 友三郎 海軍大将 】
 
 
 
   大正11年の6月に、海軍大将 加藤友三郎閣下が、 内閣総理大臣となり、 軍縮とシベリア
 
撤退が推進されていったのですが、 合わせて進められたのが、愛国教育と、虜囚教育と言いますか、
 
 「 軍人も、民間人も、決して捕虜になってはならない。」という、教育が、一般社会、各種学校
 
始められたのです。
 
  その題材にされたというか、実例として紹介されていったのが、以前詳細に紹介した、尼港事件
 
  【にこうじけん】 こと、 ニコラエフスク、ラ、アムーレの沿海州の港街で発生した、共産党ゲリラ
 
 による、 民間人6千数百人の大虐殺事件でした。
 
 
 
 
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       この事件では、 日本人国籍の朝鮮人労働者や、若者が、武力共産革命を叫び、
 
      雇い主の、 商店主や、支店従業員を襲い、 「 資本主義者として逮捕し、 女子供
 
      に至るまで、 冷たい雪の中、 裸にされて、 斧で頭をたたき割られるという、悲惨な
 
      事件でありました。
 
 
 
 
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         大正11年前後のシベリアの処刑方法というものは、銃弾などは、貴重品なので、
 
         ロシア人、独特の方法で、斧で、頭をたたき割ったり、 手を切り落として、楽しんだり、
 
         脚を切り落として、 苦しむのを見て楽しむわけです。
 
            
 
 
 
 
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       政府は、 資本家から武力で、農地や建物を奪い取り、国有化して、共産化していく
 
       事を、ポルシェビキ と言うのですが、 平和な都市に押し寄せ、 共産革命に名を借りて
 
       人々から、略奪行為を行い、 人々が抵抗すると、「 資本主義者、 帝国主義者。」
 
       とさけんで、 暴行行為や、 殺人を行い、 その物資が底をつくと、次の地域に
 
      移動して、同様の略奪を行う。  まあ、 山賊のような物ですが、 これらの被害者の
 
      写真や、 印刷物を作って、 宣伝活動を行い、 共産主義革命が、非常に危険きわまりない
 
      政治思想だと、宣伝して、 国民に知らせていったのです。  
 
         
 
 
 
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        当時の国民からしますと、「 共産党とは、なんやねん。」と、 知識が乏しく、
 
       「 税金を無くし、教育を無料化し、医療を無料化し、 みんな平等に仕事をし、
 
       食料も、衣料品も平等に分配してーー。」と言うのが、共産党の宣伝文句で、
 
       宣伝工作員が、先発でその地域に先行して、 こういう広報をするわけです。
 
       そういうお話を聞きますと、貧乏していると、「 ごっつい、えー話やないか。」
 
       と、思うわけです。
 
 
 
 
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       貧乏人程、魅力を感じる宣伝内容ですが、 これらの話を信じて、 地主や、教会で
 
       殺人などを行い、 建物に放火して、 その後、熱が冷めてみると、 共産党にだまされて
 
       いたのを気がつくわけです。
 
 
 
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          「今年は、いくらの収穫を上げて、○○の農作物資を納入せよ。」と、命令が来て、
 
          その数字があげられないと、責任者は、やくただずの共産党員とレッテルを貼られて、
 
          逮捕され、 住人の前で見せしめで処刑され、 その村の住民は、恐怖におののく
 
          わけです。   一人責任者が、ノルマ未達成の責任を取らされて、処刑だけで
 
          済めばよいですが、 多くが、 シベリアの極寒地に開拓団として強制的に移住
 
          させられ、 拒否したら、軍隊で皆殺しとなり、 あいた耕作地や、家々には、 
 
          ロシア人が集団農場として、その土地にどんどん入植してきたのです。
 
 
 
 
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          比較的温暖な、 黒海沿岸、 ウクライナ南部など、 本来北の民族のロシア人が
 
          多数住んでいるというのは、 そういうことで、 逆に、本来、クリミアなどの地域に
 
          住んでいないといけない、 タータール人などが、 シベリアの中央に、今も厳しい
 
          生活環境で住んでいるというのは、 そういう事情があり、ここから「 シベリア送り
 
          。」 という言葉が生まれていったのです。
 
          地主や、教会の神父は、税金と称して、 半分横取りしていったのですが、
 
          共産党は、 「なんと、国家の物だ。」と言って、 全部穀物を持って行ってしまうのです。
 
          そして、 配給の食糧などは、 僅かであったのです。
 
          結局、 まえより、ひどい暮らしになっていったのです。
 
 
           
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       私が、朝鮮半島を日本が併合してなかった場合、 中国の軍閥か、ロシアに占領され、
 
       共産化し、 朝鮮人はシベリアに強制移住させられ、 代わりに、温暖な耕作地には、
 
       ロシア人が入植し、 住む場所を追われていたであろうと、推測するのは、 このような、
 
      当時の大陸の状況があったからです。
 
 
 
 
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           いずれにしても、 人の死など何とも思っていない連中であったようです。
 
          現在でも、 平和を叫ぶのは良いことですが、 自分達の身は、必要最小限
 
          自分達で守らないといけないと言うのは、 日本人が、共産武装ゲリラや、
 
          外国からの攻撃を受け、 国民がひどい目にあわないように、国民を守るのは
 
          政府の勤めなわけです。  
        
 
 
 
 
 
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           尼港事件で、 外務省の職員、海軍陸戦隊の兵士、 陸軍の水戸第2連隊
 
           第3大隊の面々が、中途半端な、妥協をしていった末路は、 軍医、看護婦、
 
           傷病兵まで、 頭を斧でたたき割られて、 生きて虜囚の辱めを受けて、
 
 
 
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           哀れな最期を遂げていったと言う事は、 広く国民に宣伝され、 日本人を
 
           裏切って、 共産革命に参加していった、朝鮮人の若者を、国賊、非国民と
 
           宣伝し、 このことが、翌年発生する、関東大震災の時の、 朝鮮人襲撃
 
           事件へと、発展していくのでした。
 
 
 
 
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           私達も、 目を背けるような、頭が鼻から上がない写真や、 手足がバラバラに
 
           された痛ましい写真を見せられて、 死ぬまで、一人になっても戦えと、教育を
 
           受けていったのです。
 
 
 
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           これらの教育が、 マリアナ諸島や、 南西諸島での悲劇につながっていくのでした。
 
 
 
          【次回に続く。】