第950回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第949話  海軍兵学校 部下の統帥の事。    2014年9月28日 日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
        
 
 
           
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    以前紹介しましたが、日本海軍には、その人、その人に番号という物がありまして、 番号が
 
   若い番号の人が、 艦を統帥したり、 艦隊を統帥したりする事になっていたのです。
 
 
 
  
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          これらの番号順は、 食事をする場所なども、番号順にならび、江田島
 
         海軍兵学校では、 学業の成績順にならび、 何かをする場合は、 番号の
 
         少ない人に、敬礼をし、 指揮下に入ることになっていたのです。
 
         年齢が、私のように、20歳 と言うことや、 源田【 後の航空幕僚長 参議院議員】が
 
         17歳という年齢でも、 源田が番号が18番でありましたので、 彼は上官であったのです。
 
         いくら年下でも、 学業や、運動科目が優秀で、 番号が進みますと、 年齢に関係なく、
 
         当時は、皇族は除いて、家柄や、農家の出身とかの身分に関係なく、数字の少ない軍人
 
         になれたのです。
 
 
 
 
 
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           海軍兵学校を無事落第せず、卒業しますと、 その卒業番号で、艦隊に配属され
 
           一生、この番号がついてまわるというお話は、以前紹介しました。
 
           海軍大尉 【 当時は、 だいい と読んだ】 までは、 私達の52期の場合、
 
           みんな一緒に、進級し、 少佐以上の佐官【 さかん 】からは、番号順に
 
           進級していったのです。
 
 
 
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          中には、 生田 乃木次 生徒のように、 上海上空の空中戦で、日本海
 
          始まって以来の、アメリカ人傭兵の中国空軍機を ドックファイトで、撃墜し、
 
          勲章を受けたりしますと、 番号を飛ばして、進級し、 一クラス上の51期の
 
          私と同い年の 木梨 鷹一生徒のように、潜水艦で、アメリカの航空母艦
 
 
 
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          撃沈し、 聯合艦隊総司令部が、全員で祝杯を挙げるような、大戦果を
 
          あげた場合は、 例外で、 番号を飛び越して、進級できたのですが、例外で
 
          ありました。
 
 
 
 
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           但し、休みの日や、 休憩時間は、 貴様と俺の関係で、 52期のクラスメイトは
 
           階級や、 番号に関係なく、 爺さんになるまで、 同期の人の悩み事は、自分の
 
           なやみと考え、 お互いが世話をし会うという、 そういう良い関係でありました。
 
          海軍では、いくら、身分が低くとも、意見具申【いけんぐしん】 と言うのがありまして、
 
          前向きな考えを上官に進言できたのです。
 
          但し、 自分の考えと反対のことでも、 上官から、 「命令。」と、指示が出ますと、
 
          それを自分の考えとして、 実行していかなければならなかったのです。
 
          反対のことをしますと、 抗命 【こうめい】 と言いまして、 軍法会議にかけられて、
 
          刑務所に行かされたり、 ひどい場合は、 銃殺刑に処せられたのです。
 
 
 
 
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            海軍の艦隊には、 大なり小なりの艦隊があるわけですが、 司令長官と、
 
            参謀長と、 参謀という、職務がありまして、 参謀が作戦を考え、副司令官の
 
            参謀長が、 参謀の考えを聞いて、作戦をとりまとめし、 艦隊の司令長官が
 
            参謀長の報告を聞いて、 許可を出し、 参謀長が、命令を発令して、実行して
 
            行くと言う、 そういう組織形態であったのです。
 
 
 
 
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            私達は、 日曜日に、江田島に来る受験生の案内をおおせつかったのですが、
 
          分隊の大半の生徒が考えていることと言えば、日曜日は、兵学校は休みで
 
           生徒倶楽部に行って、 みんな、読書をしたり、 将棋をしたりして、ゆっくりしよう
 
           と、思っていた矢先、 真夏の暑い中、やっかいな用事を仰せつかったのです。
 
           みんな、 「 やれやれ、 変なことを、おおせつかった。」と、言うのが、心境の
 
           様でした。
 
 
 
 
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           前を歩く、監事の海軍大尉殿に、「 監事殿 意見具申があります。」と、申し出て、
 
           軍歌を歌いながら、 小用の港に行進することを申し出たのです。
 
           分隊監事殿は、「 よし、元気があってよろしい、 許可する。」と、許可をいただき
 
           まして、 軍艦 という、軍歌を歌いながら、 小用の港に向かったのです。
 
           人間というのは,不思議な物でして、辛いときや、苦しいときに、 勇ましい音楽や、
 
           歌を歌いますと、 組織全体としてまとまるのです。
 
           みんな、大声で歌って、 江田島から、小用の港に向かう峠を越えていったのです。
 
 
 
 
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                【   当時の江田島から、小用港への峠の古写真 】
 
 
 
          江田島は、要塞地帯の中にあったので、大正11年当時は、写真撮影は原則
 
          禁止になっていまして、 写真が少ないのですが、上の画像の様な、 両面が
 
          法面の峠の道が続いていたのです。
 
 
 
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                       【  当時の小用の港 桟橋付近 】
                       
 
         当時、呉の西側の川原石港【現在の河原石】から、 小用港に、定期便の船が
 
         出ていまして、受験生や、 通勤者、 海軍関係者でよく賑わっていたのです。
 
 
 
 
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          私は、分隊の中の14名の生徒の内、 次席番号の西澤 慎六生徒 【群馬県 
 
          高崎中学卒】と、 3番目のハンモックナンバーの宇都木 秀次郎 生徒 【 栃木
 
          県 栃木中学出身 】を呼び出して、  宇都木生徒に、生徒を案内する仕組みを
 
          考えさせ、 誰が、 どの生徒倶楽部に、人を案内するか、立案を命じたのです。
 
          海軍で言う、参謀の用事を頼んだのです。
 
 
 
 
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          小用港には、 船が約1時間事に到着します、 到着事に、 いろんな生徒が到着
 
          するのです。
 
           ちゃんとした、 組織で案内をしませんと、 オーバーヒートしてしまいます。
 
           西澤生徒には、 そのとりまとめを御願いしたのです。 まあ、いうなれば、 参謀長
 
           の役職にあたることを、御願いしたわけです。
 
 
 
 
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        海軍は、 このような組織で、 艦隊も、飛行隊も 海軍独特の組織で動いていき、 
 
        縦と横でつながっていたのです。
 
        そして、 指揮官が戦死すると、 次の先任が部隊の指揮を引き継ぎ、 その人が
 
        また、戦死すると、 次の先任が引き継ぐと決まっていたのです。
 
        指揮官は、 参謀長を信頼して、すべてを任し、 参謀の頭脳を極限まで生かして、
 
        作戦行動を進めていく、 これが、海軍の伝統的なやり方であったのです。
 
        私も、真夏の暑い小用港で、海軍の伝統に従って、業務を遂行していったのでした。
 
 
 
【次回に続く。】