第951回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第950話 海軍兵学校、ホイコラの事。 2014年9月29日月曜日の投稿です。
大正11年7月2日 日曜日 私達の分隊は、 私は、小用港の桟橋に残り、14名の
兵力の内、 参謀長役と、参謀役を桟橋にとどめて、 ここを司令部とし、 のこりの
12名を、 点呼を行い、 偶数番号と、 奇数番号6名を2班に分け、 ほぼ1時間事に
桟橋に到着する、河原石港よりの生徒を、江田島の生徒倶楽部に案内し、
往復で,1時間、 休憩を入れまして、 交替しながら案内する計画を
作ったのでした。
何事もそうですが、 主力部隊と、予備兵力が必要でありまして、 二班が
戻ってこない場合は、 小用桟橋で、我々3名が対応し、監事殿の、
手元にある、 分宿表に元図いて、 受験生を振り分けていくのです。
しかし、やっかいなことに、 同じ生徒倶楽部に宿泊する生徒が、
まとまって到着してくれると、 案内も1度で済むわけですが、
朝から夕方まで、 バラバラに到着するものですから、 同じ、生徒
倶楽部になんども訪れることになるのです。
私達は、「 同じ場所を何回も案内するのは、非常に段取りが悪いこっちゃ、
あーーーーーっ はてーーーー、なんぞ、よい方法がないもんやろか。」と、
思案していますと、 第一陣が到着し、 1カ所で到着の受付をして、 生徒の
名前を聞き出して、 それぞれに別けていく作業を真夏の暑い中、行なった
のです。
到着の受付は、 西澤生徒に任せて、 私は、「 おぃ、 こっちや。」と、
誘導していたのですが、 ある生徒が、西澤生徒と、なにやらもめている
様子で、私は、彼等に近ずいて、「 どないしたんや。」と、問いただしますと、
彼は、鹿児島の生徒で、鹿児島弁なので、西澤生徒は上州高崎人、 どうも
良く聞き取れず、 私が、「 おまん、どこぞいくでもんすか?。」と聞いてみると、
どうも 厠【 かわや 当時の便所のこと】に行きたいらしい。
なんでも、桟橋の近くに厠がないので、そのあたりの海で用をたして
くるように、西澤生徒が言うと、 「 おいと゜んーーーー云々でごあす。」
と言う、どうもみんなが見ている前では難しいグレイス【大便】だった
ようでして、 まあ、色々やりとりして、 聞いてみると、船の中に天然の
水洗トイレがあると、監事殿に教えていただき、 彼は、 また船に乗って
グレイス【大便】をしていたら、 船は、待ちきれず出港してしまい、 また、
彼が小用桟橋に再上陸したのは、 1時間後でありました。
彼の名前は、鹿児島県 垂水の生徒で、 黒木 重雄 生徒でありました。
になるのですが、 当日、特に印象に残った出来事でありました。
話をするように指導されるのです。
それはなぜかと言いますと、 命令が伝達できなかったり、報告が伝わらなかったり
するのを防ぐ為でして、 例えば、 熊本県の生徒が。「 ほいこら、ほいこら。」と、
言っているのですが、私達関西人は、何の意味かわからないわけです。
「 なにを、 しゃべっとるんかいな。」と、 聞いてみますと、「 ほいこら、ほいこら。」
と、言いますのは、「 あそこ、あそこを見たら、○○がある。」と言う意味らしく、
それぞれの地方によって、当時は方言が多く、お話が伝わりにくかったのです。
戦後、テレビジョンが広まりまして、 いくぶんか、改善されて、意味が
わかりやすくなったのですが、 大正11年当時は、ずいぶんと、方言が
あって、 標準語になれるまで、時間をずいぶんと要したのです。
【次回に続く。】