第952回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第951話 海軍兵学校 上官の立場で仕事をするの事。   2014年9月30日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
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       大正11年7月2日の夏の暑い日、私達は、江田島の小用桟橋で、海軍兵学校
 
    2次入学試験の受験生を案内するため、 汗を流していたのです。
 
    しばらくしますと、 兵学校の別の生徒の一団が、こちらにやってきて、古田中 監事殿
 
    に敬礼して、「 井上 武雄 生徒以下、7名、 昼の糧食を補給しにまいりました。」と、
 
    言って、 兵学校の小僧【 学生食堂のおじさん】から、竹の皮のにぎりめしを持って来て
 
    くれたのです。
 
 
 
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                    【  昭和初期の 小用 桟橋  古写真 】
 
 
    誰かと思えば、前の分隊で一緒であった、井上 武男生徒、「 淵田生徒、お茶も持って
 
    きたっぺ。」 と言って、手渡してくれ、 有り難く頂戴したのですが、 私は最後にいただく
 
    ことにしたのです。
 
    それは、まだ、生徒を案内して、 分隊の半数の生徒が戻ってきていなかったので、そうした
 
    のです。
 
 
 
 
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    待機中の生徒は、 昼の休憩の号令を出し、 私は、深く反省したのです。
 
    というのは、生徒の案内に気を取られ、 部隊の補給のことを、失念していたからです。
 
    多くの部下を抱え、 部隊を統帥する上で、 水の補給、糧食の補給は、たえず考えて
 
    いないと部隊は戦わずして、全滅してしまうわけで、 多いに反省するところでありました。
 
    本日は、 監事殿が出発前に手配をしていただいていたので、良かったわけですが、
 
    以後、 この失敗に懲りて、水と糧食の事は、 忘れずに考えるようになったのです。 
 
 
 
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    夕方、 まだ明るい夕方ですが、 一通り案内し終わり、小用の桟橋に整列し,点呼を
 
    行い、 分隊監事殿から、 「 今日は、日曜日の暑い中、良くやってくれた。」と、訓示を
 
    いただいて、 私達は、 兵学校に向かって、また、暑い夕日が差す中、 軍歌を歌いな
 
    がら、行進を始めたのです。
 
 
 
 
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      みなさんも、 家の中で、お父さんや、お母さんに用事を頼まれたら、 口答えをしたり、
 
     反発をしたり、 ぶつぶつ小言を言いながら、用事をしたり、 一般社会においては、
 
     会社組織の中において、 上の役職の人の申しつけに、 同様の態度で、どうのこうの
 
     言いながら、作業する人が、いつの時代も見受けられます。
 
      私達の時代にも、そういう人が見受けられました。 
 
     どうせ、同じ事をするなら、 笑顔をしたほうがありがたみが違うわけでして、 上役の
 
     人の立場になって、 その人になったつもりで、 何事も仕事に取り組んでいく、こう言う事が
 
     大切です。
 
     上役の人の為ではなく、 自分自身のためでありまして、 また、 その人の立場になって、
 
     物事を考え、 意見があったら、 前向きな意見具申を行い、 物事に取り組んでいく、
 
     海軍においては、 こういう行動と心がけが求められていったのです。
 
 
 
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       実は、 大正11年7月2日の夏当時、 こう言う事はみんな頭の中に無く、軍縮整理の
 
      退学者の中に入りたくないとの考えで、 みんな、暑い中、辛抱していたというのが
 
      実情でありました。
 
 
 
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  【  日本海軍の巡洋艦隊の主であった、 栗田 健男 海軍中将 海兵38期卒 茨城県出身 】
 
 
        先ほどのお話は、私が巡洋艦に乗り組んでいた頃、 栗田 健男海軍大佐 後の、
 
      海軍中将から 訓示を聞いて、 良いお話を聞いたと、思い、以後、信条にしていたのです
 
      が、太平洋戦争中の事で、 戦後、小説家や、新聞社などから批判を受けることが
 
       栗田 健男 閣下は、多かったのですが、 まったく、いい逃れをせず、 一人で責任を取り、
 
       当時の部下の落ち度にしたり、 責任転嫁をするような、おかしな話はされず、 立派な
 
       軍人で、人間的にも人格者で、思慮深い人でありました。
 
 
 
 
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       明治に,東京築地に海軍兵学校が開設され、 昭和20年に、敗戦と同時に門を閉じる
 
       事になっていったのですが、 最後の校長先生が、 栗田 健男 海軍中将であったのも
 
       何かの歴史のいたずらかも知れません。 
 
 
 
       【次回に続く。】