第958回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第957話 海軍兵学校 水練の事。         2014年10月6日 月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
   大正11年7月  ヨーロッパで、ウクライナを、ソビエト共産党が侵略し、
 
となりの中国の上海で、中国共産党が結成され、日本でも東京市の渋谷で、
 
日本共産党が旗揚げして、 共産党が勢力を伸ばしていた頃、私達は、江田島
 
海軍兵学校で、水練 【水泳の練習】の授業を受けていたのです。
 
これらの授業は、 比較的温かくなって授業が行われていたのです。
 
         
 
 
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 いつか知らないのですが、 心臓麻痺のような、 水練での事故があったそうで、
 
当時は、海水に入る前に、海軍体操を、何回もして、体をほぐしてから、海に入って
 
いました。
 
以前紹介しましたが、 私は、奈良県立畝傍中学、在学中に、伊勢の観海流の
 
古式泳法の講習を受けて、ある程度は泳げるようになっていたのです。
 
 
 
 
 
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全体の中には、 以前紹介した、黒田 吉郎生徒のように、 山間部出身の生徒
 
は、泳ぎが苦手な生徒もいたのですが、 出来ないではなく、 泳いだ経験が
 
少ないだけであって、 彼は努力家で,随分早く上達したのです。
 
全員 運動能力が発達した生徒ばかりなので、 すこしコツを会得すると、上達は
 
早いわけです。
 
 
 
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戦後の水泳教室と違い、 当時の水練がどう違うかと言いますと、 速く泳ぐ必要は
 
無かったのです。
 
なるべく、平泳ぎのように、顔を水面から出しまして、 体力の消耗を防ぎ、
 
長時間浮いていることが求められたのです。
 
 
 
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 例えば、艦船が沈没した場合、 水面になるべく長時間浮き続け、救助を待つ、
 
 こう言う指導であったのです。
 
 浮いているだけの授業というのは、 他の体操の授業とか、 柔術とか、角力
 
 の授業より、 はるかに楽ちんでありまして、 私は、水練の教練を、「 楽勝やなーー
 
 えーー気分やがなーーーー。」と、 当時は楽しんでいたのです。
 
 
 
 
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もう一つの水練の授業は、 全員で列を作って、 体形を整えて、 平泳ぎで水面を
 
移動する、 水泳の教練でしたが、 これは、前にどんくさい【  鈍い生徒 】 生徒が
 
いますと、 手が相手の足に当たったりして,前の間と横の間隔を保つのが大変であり
 
ました。
 
 
 
 
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私達の少し前に、 監事附の曹長が、 先行するランチの後で、 笛を「 びっ、
 
 びっ、びっ。」 と、吹くわけです。  
 
その笛の音に、私達は合わせて、手を動かせて、 足を動かすわけです。
 
 
 
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共産主義の嵐が吹き荒れ、世界では多くの人が命を落とし、 家屋敷、畑を
 
没収され、食糧を共産党員に強奪され、 食べる物が無く、飢えていた頃、
 
私達は、江田島の江田内の海で、泳いでいたのですが、戦後考えて見ますと、
 
ずいぶんと幸やわせであったと思います。
 
 
 
     【次回に続く。】