第959回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第958話 海軍兵学校 沈没時の渦巻きのお話の事。 2014年10月7日 火曜日の投稿です。
大正11年の7月の夏の暑い日と言う事以外、昔の話で失念してしまったのですが、海軍
暑くなるので、当時はクーラーなどありませんので、早く水練の教練にならないものかと、 そわそわ
していたのです。
ありまして、 数メートルという、木製の大きな模型でありまして、 ここで、水練の前の、授業が
行われたのでした。
以前紹介しましたが、 古田中 海軍大尉殿は、 体操の教練の担当で、 みなさんの
学校でも、体操の先生は、 活発というか、恐ろしい人が多いのですが、 今日は、その
古田中監事殿の授業であったのです。
以前紹介しましたが、 古田中監事殿は、海軍大佐となり、日本海軍の報道部で、海軍の
国策宣伝映画の監修や、そういうお仕事をされて、活躍されるのですが、独特の授業で
あったのです。
そのお話というのは、長いお話でしたが、簡潔に要約して、 肝の話の部分は、
大きな船が浸水して、傾いた場合、 半径300メートル以上、 どんな場合でも、
泳いで急いで艦から離れるという、 そういう事でありました。
私には、ビンと来なかったのですが、 大きな物が海の中に沈むときに、渦が出来、
クルクルと回って、転覆沈没してしまうとそういうお話だったです。
私は、あの大きな鉄の塊の駆逐艦が、クルクル回って、ひっくり返って、渦に飲まれると
そんな話に、私は、「 ほんまかいなーーー。」と,一瞬信じられなかったのです。
沈没しそうな、大きな船のそばで、 プカプカと浮いていますと、その渦に巻き込まれて
靖国神社に一直線という、そういうお話でした。
「 半径300メートル以上、急いで泳いで離れよ。」と言う言葉に、助けられた人は
実に多かったのです。
以前紹介した、私と同期の海軍兵学校 52期卒の黒田 吉郎生徒 【 後の海軍大佐
沈没する時、 彼は、 急いで、重油まみれになりながら、大きなうねりの中、 必死に
泳いで、大和から離れたそうです。
この授業の300メートルと、 沈没の渦の事が、頭の隅にあったからです。
彼の体験談によると、 彼の後にはおびただしい人が海の上にプカプカと浮いていて
波が高いのと、 冷たい海水のため、 何かにつかまって、浮いていたそうですが、
彼は、必死で泳いで大和から離れて正解だったというのが、 その後、 爆音と
ともに、大きな爆発があって、おそらく弾薬庫に引火したと考えられるのですが、 二つに
船体が割れ、沈むとき、 必死に前を見て泳いでいたので、よくは後のことは、
見えなかったそうですが、 数百人の人が、沈没の渦に巻き込まれて、 消えていった
そうで、 もしかしたら、もっと人数が多かったかも知れないそうですが、これらの人びとは、
2度と水面に上がってこなかったそうです。
そして、原子爆弾のキノコ雲のような、爆煙が、水面から上がり、 この時、護衛の
駆逐艦も、どんどんと、遠ざかっていったようで、そして、空から、いろんな物が降り注ぎ
運悪く、 空から降ってきた、鉄の塊や、飛来物が頭部に当たって、 沈んでいく
戦友が多く発生し、 かれは、目の前に落ちてきた、 木の箱にしがみついて、
なんとか、 命を取り留めたそうで、 瀬戸内海の江田内と違い、 東シナ海は、
波のうねりが高く、 泳げた物ではなく、 浮いているのが精一杯だったようです。
雪風に命中するのですが、 「 こりゃーいけんわー、ついに、もう最後か。」と、魚雷の
命中する瞬間、目を閉じると、ゴーーーンと言う音がして、天の助けか、 不発だったそうで、
メートル以上離れよ。」という当日の授業のおかげで、多くの人の命が助かっていくことに
なったのです。
古田中監事殿が、「 おほん、 説明は以上である、 これより、海岸に転進し、本日は、
沈没寸前の艦艇からの、退避訓練をおこなう。」と、 号令がありまして、私達は、
海岸に、隊列を組んで、転進したのでありました。
【次回に続く。】