第961回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語】

第960話 海軍兵学校 浮遊重油のお話のこと。       2014年10月9日 木曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
        
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    「 ミィーーーン、ミンミンミーーーーーー。」と、江田島セミが鳴く、暑い夏の日、
 
     飛び込みの訓練が一通り終わりますと、点呼の後、 指導が行われたのです。
 
    指導というのは、お小言ではなく、 退艦時の注意事項であったのです。
 
 
 
 
 
    古田中 監事殿は、 「 全員注目、 数年前、山口県の徳山の沖合で、戦艦 河内が、
 
    爆沈した時、 艦長以下、 海に放り出され、 あっという間に沈没した事件があったの
 
    である。」
 
 
 
 
 
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               【 大正8年に突如爆発し、沈没した、  戦艦  河 内  かわち 】
 
 
 
     この事件は、以前紹介した、 呉鎮守府の参謀長 正木 義太 海軍少将が、海軍大佐
 
    時代に、 戦艦 河内の艦長をされていて、ある日突然、 弾薬庫が轟音とともに、爆発し、
 
    停泊中の戦艦 河内が、あっという間に沈んでしまう事故があったのです。 
 
    当時の記憶では、 6百数十名が殉職したと、聞いています。
 
 
 
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    古田中 監事殿は続けて、 「 この事件の教訓だが、 海面に多くの重油が流失し、
 
    付近の水面に浮遊して、 それを、海で飲み込んだりして、肺に入り、多くの乗組員が
 
 
 
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         【 沈没時の重油の油の輪  現在でも危険なことは同様で、注意が必要である。】
                  
 
 
    救助された後、 呼吸が出来なくなり、亡くなっていったり、 呼吸困難などの後遺症に苦しん
 
    だのである。」と、説明があったのです。
 
 
 
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               【  大正時代の石炭の艦艇への人力積み込み作業  】
 
 
 
     大正11年当時、 明治時代の軍艦というのは、その多くが石炭をたいて、動力を得る
 
     そういう構造だったのですが、 その後、 明治後半から、 重油をたいて、動力を得る
 
     構造に軍艦の構造が変化していったのです。
 
 
 
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           【 竹籠に石炭を入れ、 バケツリレーのように積み込む重労働であった。】
 
 
 
      当時は、その過渡期で、 石炭を搭載する容積に対して、 重油の方が、たくさん搭載でき、
 
      航続距離が長く取れたのです。
 
      但し、 いったん、艦が破損して、沈没しますと、これらの重油が、海面に流れ出し、
 
      海面に浮遊しまして、 飛び込んで逃げる乗組員の口に入ったり、体に附着したりと
 
      こういう事案が発生し、 当時のお話では、 水面に浮いている最中、 重油を飲み込んだり
 
      ややこしいのが,肺の中に、重油が入って、 ぜんそく のような症状で、多くの人が苦しみ
 
      ひどい場合は、 息が出来なくなり、他界したのです。
 
 
 
 
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            【 艦長の 正木 義太 海軍少将も、事件以後、咳き込むことが多かった。】
 
 
 
         古田中監事殿は、 「 いいか、 全員 良く覚えておけ、 重油を飲み込んだら、
 
        苦しんで死ぬ事となる、 よく頭の中に入れ、 急いで油の輪の中から遠ざかり、
 
        随分離れて、水面に浮いて、 なるべく大人数でかたまって、救助を待て、
 
        それがなぜだかわかるか、 おいっ、 貴様、  どうしてか、答えてみよ。」と、
 
        ある生徒を指名したのでした。
 
 
 
         【次回に続く。】