第961回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語】
飛び込みの訓練が一通り終わりますと、点呼の後、 指導が行われたのです。
指導というのは、お小言ではなく、 退艦時の注意事項であったのです。
古田中 監事殿は、 「 全員注目、 数年前、山口県の徳山の沖合で、戦艦 河内が、
爆沈した時、 艦長以下、 海に放り出され、 あっという間に沈没した事件があったの
である。」
【 大正8年に突如爆発し、沈没した、 戦艦 河 内 かわち 】
この事件は、以前紹介した、 呉鎮守府の参謀長 正木 義太 海軍少将が、海軍大佐
時代に、 戦艦 河内の艦長をされていて、ある日突然、 弾薬庫が轟音とともに、爆発し、
停泊中の戦艦 河内が、あっという間に沈んでしまう事故があったのです。
当時の記憶では、 6百数十名が殉職したと、聞いています。
古田中 監事殿は続けて、 「 この事件の教訓だが、 海面に多くの重油が流失し、
付近の水面に浮遊して、 それを、海で飲み込んだりして、肺に入り、多くの乗組員が
【 沈没時の重油の油の輪 現在でも危険なことは同様で、注意が必要である。】
救助された後、 呼吸が出来なくなり、亡くなっていったり、 呼吸困難などの後遺症に苦しん
だのである。」と、説明があったのです。
【 大正時代の石炭の艦艇への人力積み込み作業 】
大正11年当時、 明治時代の軍艦というのは、その多くが石炭をたいて、動力を得る
そういう構造だったのですが、 その後、 明治後半から、 重油をたいて、動力を得る
構造に軍艦の構造が変化していったのです。
【 竹籠に石炭を入れ、 バケツリレーのように積み込む重労働であった。】
当時は、その過渡期で、 石炭を搭載する容積に対して、 重油の方が、たくさん搭載でき、
航続距離が長く取れたのです。
但し、 いったん、艦が破損して、沈没しますと、これらの重油が、海面に流れ出し、
海面に浮遊しまして、 飛び込んで逃げる乗組員の口に入ったり、体に附着したりと
こういう事案が発生し、 当時のお話では、 水面に浮いている最中、 重油を飲み込んだり
ひどい場合は、 息が出来なくなり、他界したのです。
【 艦長の 正木 義太 海軍少将も、事件以後、咳き込むことが多かった。】
古田中監事殿は、 「 いいか、 全員 良く覚えておけ、 重油を飲み込んだら、
苦しんで死ぬ事となる、 よく頭の中に入れ、 急いで油の輪の中から遠ざかり、
随分離れて、水面に浮いて、 なるべく大人数でかたまって、救助を待て、
それがなぜだかわかるか、 おいっ、 貴様、 どうしてか、答えてみよ。」と、
ある生徒を指名したのでした。
【次回に続く。】