第963回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第962話  大正11年シベリア恐慌の始まりの事       2014年10月11日 土曜日の投稿です。
 
 
       
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        大正11年7月、 暑い7月でありましたが、私達が水練の教練を受けていた頃、
 
      日本の経済界では、 舞鶴、小樽を中心に、 物資の価格暴落が発生していったのです。
 
 
 
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           地方の農家から、 米を買い集め、 舞鶴や、小樽に持っていくと、数倍の
 
          価格で、陸軍が買い取る物ですから、 実際、必要ない数量も、どんどん持ち
 
          込まれ、 また、 買いだめして、 もう少し価格が高騰してから、売りさばこうとか、
 
          当時は、 戦争成金と呼ばれる人達の利殖の手段となっていたのです。
 
 
 
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          これらの行為は、 味噌、 漬け物、 米、酒、缶詰などその他に及び、市中では
 
          価格が6倍、10倍などに高騰する原因となり、多くの都市部の住民の生活を
 
          圧迫していったのです。
 
 
 
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          加藤 友三郎 内閣総理大臣が、 単独で、シベリア撤退の期限を10月末日に
 
         一方的に設定し、 報道機関に発表すると、 舞鶴、小樽などの相場が暴落が
 
         はじまったのです。
 
 
 
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         物資の価格が暴落を開始すると、 困るのは、 在庫を抱えている業者や、
 
        当時先物取引などをしていた人は、 大損を出していき、 戦後の松下電器
 
        松下幸之助会長の、お父さんも、この当時、米の先物取引をしていて、全財産を
 
        失うことになっていきます。
 
        さらに、経済が混乱していったのが、 これらの人が、自分の資金で、運用していたの
 
        でしたら、大損で終わるのですが、 銀行から融資を受け、営業していた人達が返済が
 
         出来なくなっていったのです。
 
         また、 少し手元の倉庫に保管して、 もう一度値上がりをまとうという、先の見えない
 
         事をしていた人も、 持ち続けるのも経営体力の一つですが、 月日が経過する
 
         事に、どんどん価格が下落していったのです。 
 
         結果、 倉庫に保管していて、 資産が10分の一に減少したとか、 そういう事が
 
         続いていき、 多くの商売人が、破綻していったのです。
 
 
 
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    加藤 友三郎内閣の大蔵大臣は、 大蔵省の事務次官経験者の 貴族院議員 市来 
 
    乙彦 さんだったのですが、  徐々に、 食料物資の価格が低下していくよう、調整すれば
 
    経済恐慌がおこらなかったのですが、 入閣して、半月程度で、有効な手立てを打つことが
 
    出来ず、 混乱が大きくなっていったのです。
 
 
 
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          当時の融資システムも現在と違い、 担保を取って、融資するわけですが、
 
          融資の金額の約半分を、銀行に預金しないといけないシステムであったのです。
 
          そうしますと、 資金の半分は使用出来ないわけでして、 企業の資金繰りが、
 
          急速に悪化していったのです。
 
          そして、 為替手形などが、不渡りが続出して、 経済が混乱していったのです。
 
          手形の決済の資金をあてにしていた、会社も、不渡りを受けて、資金ぐりが
 
          出来なくなっていき、 ついに、 連鎖倒産に発展していったのです。
 
 
 
    【次回に続く。】