第966回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第965話 加藤 友三郎 内閣 機先を制す の事。 2014年10月14日火曜日の投稿です。
【 きせんをせいす】 という、言葉は、現在は、火災で焼失してしまったのですが、
【 火災で焼失した、 海軍兵学校 武徳殿 古写真 】
機先を制す という、東郷平八郎元帥の 書がしたためられた、 額がかけてあったので、私達
には、記憶に残っている言葉です。
「 機先を制すとは、 なんちゅーーいみやねん。」と言うと、 武道場の長押に、額で飾って
あるのですから、 剣術の言葉で、 お互いが正眼に構えた時、 相手の切っ先を、グッと
押さえて、 出鼻を叩いて、 敵に一撃を与えるという、意味合いもあります。 いろんな時
に海軍では,この言葉が使われていたのです。
なれないことになっていて、なるには、海軍を退職して、 民間人になってから、 内閣
総理大臣になる必要があったのです。
そこで、 加藤 友三郎 海軍大将も、 海軍を1度退職して、予備役になる必要があった
のです。
大正11年7月、 自身の退職を含めた、 人事を発令したのです。
自分の名前で、 自分に対して、 退職通知を出し、 そして、 反対派の、艦隊派を
あっと言わせる人事を発表したのです。
【 皇族の 伏見宮 博恭王 ふしみのみや ひろやすおう 海軍中将 】
加藤 寛治 海軍中将をなど数人を除いた ほとんどの海軍中将、海軍少将、 に、解雇を
通達したのです。
つまり、御国の台所事情を鑑み、 定年前に、早期退職の通知が発令されたのです。
これには、 みんなたまげまして、 解雇を発令した本人も、退職するわけですから、
命令書を受け取った、 将官も、ーーーーー、無言で、受け取る人が多かったようです。
大正11年の人事で、 海軍中将の9割が、 解雇され、予備役にされ、
「 加藤が、加藤にこびへつらい、本省派に変節したのであろう。」と、 陰口をいわれる
ようになっていったのです。
されたのです。
していき、 艦隊派の一掃を始めたのです。
聞いて、「 なにーーーーーー。」 と、短い言葉を発せられ、 随分驚かれたのが、
自身が1年前に乗艦して、西欧 歴訪で座乗していた、 海軍の戦艦 香取などを、
スクラップにしてしまい、 乗り組みの佐官の艦長などを、 解雇、 つまり、予備役に
してしまったのです。
裕仁殿下からすると、 1年前に長い航海で、世話をかけた面々が、解雇されたと
聞くに及び、「 まだ、40代で、 予備役にするのは、いささか、早すぎはしないか。」
と、 お言葉をはっせられたそうです。
【 海軍兵学校で暴力教育禁止を推進していた、千坂 智次郎海軍中将 】
このような情報は、 あっという間に、海軍関係者に衝撃的に伝わっていき、 私達の
「 もしかしたら、校長先生が、 首になるかもしれへん。」と言う噂が、 兵学校の
内外に、噂されるようになっていったのです。
【次回に続く。】