第967回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第966話 海軍兵学校 自主免官の募集の事。    2014年10月15日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
       
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                 【  当時の内閣総理大臣 加藤 友三郎 海軍大将  】
 
 
 
 
 
       大正11年 6月中旬に、 海軍からの内閣総理大臣が誕生したというので、私達
 
       海軍兵学校では、 「実に目出度い。」と言う事で、 お祭りみたいなことをしまして、
 
 
 
 
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           海軍兵学校の裏門の通用門には、日章旗が飾られまして、 たしか、食事も、
 
           小ぶりでしたが、 尾頭付きの鯛が、兵学校の生徒にも、配給がされまして、
 
           「  加藤 内閣、 えーーーーこっちゃ。」と、 私達は大喜びしたのです。
 
 
 
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           当時、海軍兵学校の生徒全員が、「 いずれは聯合艦隊司令長官か、 海軍大将
 
           になって、 艦隊を指揮し、 統帥して,一旗あげん。」と、意気込んでいる野心の
 
           塊の生徒ばかりでしたので、 政治の中心の頂点である、内閣総理大臣に、海軍の
 
           加藤 友三郎 海軍大将が就任したと言う事は、 私達にも、 内閣総理大臣
 
           なれる可能性があると言う事でして、 私達は、多いに歓迎し、 当時、 「 おうーー、
 
          わいも、いつかは、 内閣総理大臣にでも、なってやるかいな。」と、 こう考える
 
          生徒が増えたのです。  
 
 
 
          
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           そして、 海軍兵学校のある広島県も、 加藤 友三郎 海軍大将が、広島県
 
           出身と言う事で、 広島県全体が、目出度いと、 各地で海軍関係者を招待して
 
           祝賀行事が続いたのですが、 裏では、 海軍にこびへつらい、 海軍を利用して
 
           商売で利用したり、 予算を広島県に回してもらおうとか、 そういう考えの人が
 
           多かったのですが、 それが 数日で、打ち砕かれていったのです。
 
 
 
 
 
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          海軍関係の予算を次々凍結し、 事業はストップし、 失業者があふれ、治安が
 
          悪化していき,企業の倒産が相次いでいったのです。
 
          そして、 就任してすぐ、「 シベリア撤退。」と、報道陣に発表し、 ニュースが
 
          日本国内に知れ渡ると、 物資の価格暴落が発生し、経済恐慌が発生したのです。
 
          そして、自身を含めた、海軍高級将校の大量解雇を発令し、 海軍の将官
 
          90パーセントが、 早期退職を命令され、 予備役にされて、海軍から、追い出され
 
          たのです。  
 
 
 
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          つづいて、 建造中の艦艇、 建造計画中の艦艇を含めて、取りやめとし、
 
          建造中の艦については、 解体することとなるのですが、その費用も、凍結したため、
 
          数年、建造途中のまま、 海軍工廠や、大手造船所で、放置されると言う事に
 
          なっていったのです。 
 
 
          そして、 さらに,海軍艦隊派が驚いたのが、 現在運用中の戦艦や、巡洋艦などを
 
          スクラップにすることを、 どんどん決定していったのです。
 
 
 
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         艦隊派の面々からすれば、毎日自分達が暮らしている家のような物で、 それが、
 
         まだまだ十分使える艦艇が軍縮で一方的に壊されると知ると、 寂しさと、 怒りが
 
         こみ上げてきたのです。
 
 
 
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           加藤 友三郎 海軍大将などの 本省派の これらの行為は、艦隊派の将校と
 
           決定的な、埋めがたい大きな溝になっていき、 数年後、伏見宮殿下を含めて、
 
           高橋 三吉 海軍中将などの艦隊派と、本省派との報復合戦になっていくのです。
 
 
 
 
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           私達、海軍兵学校でも、「 校長先生は、クビになるかもしれへん。」と、噂が
 
           広まっていた矢先、 南側の練兵場に、集合の合図のラッパが鳴り響きまして、
 
           私達は、整列したのです。
 
 
 
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           そこでお話があったのが、 私達生徒に、自主的に退学してほしいという、
 
           そういうお話が発表されたのです。
 
 
 
 
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            私は当時、 生徒番号が、多い方でしたのでの、大変な危機感を感じるとともに
 
            「 これは、えらいことに、なってもうたわーー。」と、 江田島セミの鳴き声を
 
            聞きながら、 ため息をついたのでした。
 
 
 
【次回に続く。】