第968回  昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第967話 海軍兵学校 第53期入学者数の事。    2014年10月16日木曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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    大正11年の7月中旬頃でしたか、 早朝、海軍体操か゜終わりまして、練兵場に
 
   整列すると、校長先生の 千坂 智次郎海軍中将は、 観閲台に立って、「 先月であるが、
 
   海軍省から、海軍兵学校の生徒数規模縮小の命令があった。」
 
 
 
 
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   「理由は、 ハチ、ハチ 艦隊構想という、戦艦の戦力を充実させる艦隊構想であったが、
 
   大蔵省の国庫が、破綻に近づき、 歳出の抑制をせざる終えなくなったのである。
 
   海軍省としては、予定を大幅に変更し、 今年2月に条約が発効した、 ワシントン軍縮条約の
 
    艦艇保有制限内に、トン数を抑えるため、 多くの旧式艦艇、 現用艦艇が、廃艦となり、
 
    それにともない、 将校や、乗組員も余剰となるのである。
 
 
 
 
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     昨年度の第52期は、 300名近くの入学者があったのであるが,このような事情で、今年の
 
     第53期入学者は、50数名となる予定であるが、 これでも、海軍省からの削減数に、
 
     随分たらない数字である。
 
      ついては、 在校生の中で、 親元の家業を継げる者、 別の目標があって、そちらに
 
      進みたい者は、本官が、 推薦状をしたためるので、 申し出てもらいたい。
 
      以上、 終わり。」 と、お話がありまして、 「 敬礼。」 と、 号令がかかり、私達は、
 
      敬礼したわけです。 
 
 
 
 
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      しばらく、無言のしーーんとした、雰囲気で、 早朝からいやな感じとなったのですが、
 
      江田島の空は、白い雲と青い空が広がりまして、きれいな夏空でありました。
 
      私達の52期の生徒は、 300人近く入学したのですが、 以前紹介したのですが、
 
      30人程度、 別の大学に受け直すと言う事で、 心ならずも、学校を後にしていった
 
      生徒がいたのですが、 さらに、 誰かやめてくれないかという、募集でありました。
 
      当時、 私達は、次は、「 わいが、 退学を迫られるのでは。」と、 脅威を感じ、
 
      眠っている最中も、 もし呼び出されて、 退学を迫られたら,どういう口上で、
 
      回避しようかと、 こんな事ばかり考えるようになっていったのです。
 
 
 
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              【  本省派と呼ばれる、派閥の番頭であった、加藤 友三郎海軍大将 】
 
 
      そして,在校生のみんなが、これも、あれも、 海軍省の本省派と呼ばれる、
 
       内閣総理大臣 加藤 友三郎 海軍大将が、ワシントンに出向いて、おかしな
 
      軍縮条約を結んできたのが原因であると考えるようになり、 自然と私も源田も艦隊派
 
      呼ばれる派閥に、近づいていく原因となっていったのです。
 
 
 
 
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            【  艦隊派の中心人物となっていく、高橋 三吉 後の聯合艦隊司令長官 】
 
 
      当時、 将官が、ほとんどが、予備役にされ、 大佐クラスも次々と、予備役にされていく
 
      中、 艦隊派の中心となっていくのが、 高橋 三吉 海軍大佐を中心とした艦隊派
 
      面々だったのです。
 
 
 
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                【 軍縮反対派の代表格であった、 南雲 忠一 後の海軍中将 】
 
 
      その中には、 大東亜戦争で活躍される、当時、巡洋艦屋と呼ばれていた、南雲 忠一
 
      閣下も、 その急先鋒の1人で、 軍縮反対の署名活動などをされていたと、伝え聞いて
 
      います。
 
 
 
【次回に続く。】