第973回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第972話  陸軍恩賜のたばこ事件のその後の事。  


                                            2014年10月21日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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               【  大正11年当時の 陸軍省の建物 】
                 
 
大正11年8月後半、 新聞に報道された、陸軍 恩賜のたばこ事件で、頭を抱

えたのは、当時の陸軍大臣 山梨 半造 陸軍大将でした。
 
 海軍大臣 兼 内閣総理大臣の加藤 友三郎 海軍大将が、海軍中将の9割を、

早期退職させるなか、軍縮の流れに逆行して、田中 義一 陸軍大臣の意向を尊重

して、「 陸軍は、 陸軍の方針がある。」と 申し立てて、 強行した人事のその後、 

高柳 陸軍中将が、摂政 東宮裕仁殿下【後の昭和天皇】 から、恩賜 された、 菊

の御紋入りのたばこを芸者の女子に、くれてやったという報道に発展し、 騒動が広

がっていったのです。
 
 
 
 
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 その恩賜のたばこが、行方不明となり、また、高柳 陸軍中将が、日本の
 
極東における諜報組織の頭目であることが、次々新聞紙上で紹介され、「 陸軍
 
中将、 酒と女で失敗する。」などと、報道が一人歩きして、随分、当時陸軍の看板

に傷がついたのです。
 
私が、当時はそうでもなかったのですが、 新聞記者と間を保ち、毛嫌いする事は
 
以前紹介したのですが、 戦前の新聞記者というのは、 自分の作り話を、面白お

かしく書きまして、 頼みもしないのに、 津津浦々まで、毎朝配って歩くのです。
 
この1年後の、大正12年の9月には、 愛知県のおかしな新聞記者が、現地を

確認も行わないまま、 朝鮮人が暴動を起こしーーー、云々と,無責任な記事を

新聞に載せ、多くのなにも関係ない人が、殺される事件に発展していったのです。
 
 
 
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そして、 「 どこどこ 銀行があぶない。」 などと、 新聞記者が書くわけです。
 
それを見た一般の人が、 その銀行に押し寄せ、預金解約が続き、破綻したりと
 
言葉の暴力というか、 ペンの 犯罪と言いますか、 当時は、随分ひどい
 
新聞社や、 新聞記者が多かったのです。
 
そして、 彼等は、陸軍と手を結んで、 戦争を煽動して行ったのです。
 
 
 
 
 
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              【  大正11年当時の 陸軍参謀本部 建物  】
 
 
大正11年9月初旬、 陸軍参謀本部に呼び出された、 高柳 保太郎 陸軍中将は、
 
陸軍参謀総長の 上原 勇作 陸軍元帥に呼び出され、 「 下 。」 と、大きく叫び

ますと、
 
 
 
 
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「 陸軍中将 高柳 保太郎 そのほう、 恐れ多くも、恩賜でいただいた品を他人

に譲り渡し、世間を騒がせ不届き至極、 よって、 待命を申しつける。」と、 処分

が通告されたのです。 
 
 
当時、 待命 とは、 命令があるまで、待機すると言う事でしたが、 当時は、謹慎

ということに近い言葉でした。
 
陸軍士官学校 第3期卒 陸軍大学 第13期卒 石川県 金沢市より、将官を志し、
 
陸軍中将まで昇進されたのですが、 高柳 保太郎 閣下の軍歴は、大正12年3月

23日付けで、 故郷の金沢の第9師団附きの予備役にされて、 陸軍を去ることに

なります。
 
日本の諜報組織の大物の軍歴の最後でしたが、 その後、 満州に移動して、 松岡

洋右さんと、 活動していく事になります。
 
 
 
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みなさん、ご存じの日独伊三国同盟の締結した、外務大臣で、その懐刀として、

活躍されていきます。
 
 
 
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松岡 洋右 さんは、 長州出身で、 同郷の田中 義一 陸軍大将の取り持ちで、

縁が高柳閣下と出来たようです。
 
その松岡 洋右 さんの 甥が、 岸 信介 先生でした。
 
 
 
 
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若い 興亜院時代の岸先生が、活躍できたのも、叔父の 松岡 洋右さんの後楯が
 
あったからでした。
 
 
 
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そして、その裏では、ロシア通の 高柳 保太郎 奉天日報社長の活躍があった

のです。
 
そのあたりの、昔話は、また順番に紹介して行きたいと思います。
 
 
 
【次回に続く。】