第974回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第973話 陸軍軍事参議官 の事。          2014年10月22日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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                            【  大正11年当時の陸軍省 】
 
 
 
            大正11年 先に紹介した、 陸軍恩賜のたばこ事件 が騒ぎが起こっていた頃、
 
    陸軍省から、 田中 義一 陸軍大将に、 辞令が発令されたのです。 
 
    その辞令とは、「 軍事参議官に任ず。」 と言う物でありました。
 
    軍事参議官とは、 陸軍内では、定年前の名前だけの、 窓際の役職であったのです。
 
 
 
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         陸軍の 薩摩閥の実力者 上原 勇作 陸軍元帥は、 この恩賜のたばこ事件を
 
         利用して、 田中 義一 陸軍大将を、名誉職に追いやり、 陸軍内の勢力拡大を
 
         謀っていこうと、考えていたのです。
 
 
          当時、陸軍内には、 明治時代からの大きな二つの流れがあって、 その主流とは
 
 
          薩摩藩と、 長州藩藩士が、 幅をきかせていたのです。
 
          征韓論で、腹を立て、 西郷隆盛さんたちが、薩摩に帰ってしまい、その後、
 
          西南戦争に発展していきますが、 明治政府側には、 弟の西郷 従道 陸軍大将
 
          を中心とする、薩摩藩の軍人達が残っていたのです。
 
 
 
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           西南戦争で、 勢力が衰えたものの、 大正時代、 陸軍の派閥として、勢力を
 
           保っていたのです。
 
           その、 大正時代の実力者というか、派閥の会長が、 上原 勇作 陸軍元帥
 
           でした。
 
 
 
            
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           一方、 長州藩の総帥は、 伊藤 博文 公で、 陸軍の長州閥の運営は、
 
           維新の当時から、 番頭格の 山縣 有朋 公に任せて、 一人歩き
 
           していたというのが、 当時の実情でした。
 
 
 
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          以前紹介したように、 自分を通さないお話は、 とことん、横やりを入れ、
 
          横車を押し、反対し、 派閥を作って、 当時、明治天皇も顔をしかめる
 
          難しい人でありました。
 
 
 
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          山縣 有朋 公の死去後、 長州閥の 総帥になったのは、田中 義一 陸軍大将
 
          だったのです。
 
          大正10年、 狭心症になり、 大磯の自宅で療養するため、陸軍大臣を辞任し、
 
          そして、 軍事参議官に、祭り上げられてしまったのです。
 
          恩賜のたばこ事件とは、 表向きは、 新聞社と、 高柳陸軍中将とのお話でしたが、
 
          裏の構図とは、 陸軍の薩摩閥の陰謀で、 恩賜のたばこを利用した、 長州閥への
 
          攻撃であったのです。
 
 
 
 
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         上原 勇作 陸軍元帥が、引退した後、 荒木 貞夫 陸軍大将が薩摩閥を統帥し、
 
         ここで、全国に、 皇道 【 こうどう 】 という、宗教じみた運動を展開していきます。
 
         つまり、天皇陛下を中心に、陸軍が、 国軍を代表して、政治をしていこうという、
 
         考えというか、 主張で、そして、自らが文部大臣になり、全国の学校で、天皇陛下
 
         崇拝し、 拝み、神聖化していく政策を推し進め、 全国の薩摩閥の軍人に声をかけ、
 
         運動を展開していくのです。
 
          そういうわけで、 昭和になり、 皇道派 と呼ばれていき、陸軍は、 皇軍 と、
 
          自称していきます。  
 
          そして、 そういう宣伝活動を、尋常小学校から、 大学まで、 宣撫活動を
 
           していった結果、 飛び歩く、若い陸軍将校を、統制できなくなっていったの
 
           でした。
 
 
 
 
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            そして、 過激な若い将校が、荒木陸軍大将の周辺に集まるようになり、
 
            また、彼等を、 首都東京に近い、部隊に移動させて、 その行動を煽る
 
            軍政を行って行った結果、 2 26 事件に発展していったのです。
 
 
 
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             つまり、 海軍出身の軍人政治家や、 官僚出身の政治家を武力で抹殺して
 
           陸軍が、政治を取り仕切り、 天皇の下で、 陸軍が統帥しようという行動で
 
           あったのです。
 
 
 
 
 
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         長州閥は、 その後、 統制派 【とうせいは】 と、名前を変えて、 受け身になる
 
         立場であったのですが、 昭和初期、 2 26 事件を境に、 皇道派を追い出しに
 
         かかり、 中央から,皇道派を 一掃していきます。
 
         その元締めが、 東条 英機 陸軍大将の一派でした。
 
         このような構図で、 陸軍の皇道派は、 前線に追いやられ、 勢力を弱め、
 
         統制派が、 東京の陸軍省で幅をきかすような時代になっていきます。
 
 
 
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           そして、山下 奉文 陸軍中将などの皇道派将官は、 満州や、前線に、
 
           放逐されていったのです。
 
 
           陸軍の派閥とういのは、 随分根深い物でして、 連隊長や、師団長のポストに
 
           座るのでも、 いろんな思惑がからんで、 いろんなやりとりがあったようです。
 
 
 
【次回に続く。】