第1007回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1006話 日本の航空史の始まりの事。 2014年11月24日 月曜日の投稿です。
【 大正時代の代々木練兵場にて、 古写真 】
自分は、 夏の休暇を海軍兵学校からいただき、 浴衣に、ふんどし姿、 母屋で夏の暑い中、
松三兄ぃの買ってきた、 仏國航空団の雑誌を見ていると、 しばらくして、弟の幸夫が、妹達に、
すごろくに負けたのか、席を立ち、「 實【みのる】兄ちゃん、なにしょうるん。」と、近づいてきた
のです。
【 フランス陸軍による指導状況 古写真 】
自分は、「 見ての通りよぉ。」と、 そんなぶっきらぼうな返事をすると、「 僕にも、みしてーや。」
【方言で 見せてください。と言うこと】 と、言うので、人が見ている最中にと思ったのですが、たまに
家に帰って来て、弟に辛く当たるのもどうかと考えて、「 ほらっ。」 と、雑誌を幸夫に渡したのです。
【 明治43年 皇族方の前で 観覧飛行 】
自分が兵学校に在籍していた大正11年当時、 日本の空の航空史は、12年目に入っていて
自分も1日でも早く、空が飛べるようになりたいと、心に感じていたのです。
これからは、日本海軍も、碇のマークを、プロペラに変える決意で、 航空兵力の充実こそ、
西洋の諸外国と対決する場合、 強力な一手となると考えていたのです。
【 代々木 練兵場での飛行写真 】
みなさん、日本の空に初めて航空機が飛んだのは、 実は陸軍さんが先陣で、
明治43年12月19日に、東京府の代々木の練兵場で、皇族方の前で、 徳川好敏 陸軍大尉と
【 後の陸軍中将 清水徳川家の一族 】と、日野 熊蔵 陸軍大尉【 後の陸軍中佐】の2名が、
飛行機を飛ばして、 皇族方に飛行観覧したことが、始まりとなっているのですが、 それ以前に、
事前に予行飛行をしていたでしょうし、 それ前後が、公式の日本の航空史の始まりと伝えられて
いるのです。
【 名古屋城の上空を飛行する モーリス ファルマン 機 】
当時の飛行機は、モーリス ファルマン 機 という原始的な飛行機でしたが、
第1次世界大戦こと、 当時は、 欧州大戦と呼んでいたのですが、 それに呼応して、
日本がドイツに宣戦布告して、 山東半島のドイツ軍と、戦争を始めるのですが、
チンタオ要塞を爆撃したり、 空から偵察したりと、 随分活躍することになっていくのです。
弟の幸夫が、「 兄ちゃん、恰好がええのーー、 空飛んだら、涼しいじゃろうのーー 。」と、
言うと、 自分が、 「 まあーー幸夫、 これからは、人がせん事を、成しとげんと、大成はせん。」
【 米国人の 飛行サーカスの様子、 大正10年3月の古写真 】
と言っていると、母が近づいてきて、「 もうーーー、松三は、へんなん、こうてきてからに。」
【 方言で、 おかしな物を買ってきてから と言う意味】 と,般若のような顔で、自分に、
「 バカな事、考えんようにしぃやーー、 空から落ちて、 死んだらどうするんねーーー。」と、 自分
と弟の幸夫はお小言を頂戴することになったのです。
幸夫は、 「 かあちゃん、 心配せんでも、 空から落ちたら、 柔道の受け身で。」と、
いいながら、 板間で、 右手で、床を叩いて、横受け身をして、見せるので、自分は、
「 はははははっーーー。」と、 大笑いすることになったのです。
【 皇居の堀に墜落した大正時代当時の古写真 】
飛行機が飛ぶと、 パイロットは、すこし無茶をしたくなるもので、 自分もそうでしたが
人に見せようとすると、 事故のもとなるのです。
また、お恥ずかしい話ですが、自分の空母加賀への着艦事故のお話など
順番に紹介したいと思います。
もっとも、 そういう人間でないと、操縦は上手にはならないのですが、当時は、
代々木の練兵場から飛び立った、飛行機が、宮城【 きゅうじょう 現在の皇居の事】の
御堀に墜落したとか、 大正5年には、 海軍機が、なんと,陸軍の町田陸軍少将の
【 大正5年 町田陸軍少将宅への海軍機の墜落事故 古写真 】
お宅に墜落して、 阿部 海軍中尉 頓宮海軍中尉の2名が殉職するなど、
墜落事故が多く発生していたのです。
当時の自分は、 戦後の現在の若者が、 バイクに乗って、大きな音を出して、
乗り回すように、 飛行機に乗って、空を飛んでみたいと考えていたのですが、
母親からすると、 とんでもないと考えていたようで、 兵学校を卒業するまで、
「 沈まない、沈みにくい戦艦に乗るように。」と、 何度も言われたのを覚えています。
【次回に続く。】