第1008回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1007話 徳川、日高 両大尉の操縦訓練の事。 2014年11月25日火曜日の投稿です。
大正11年の当時は、 戦後日本では、第一次世界大戦という言葉が出来て、広く知られて
いますが、 自分達は、 欧州大戦 と呼んでいたのですが、この戦争で、いろんな秘密兵器が
なかったのです。
戦後の現在から考えると、2重行政の典型的なパターンで、 それぞれが
陸軍も、海軍も、情報を共有することなく、 動いていたわけです。
日本では、戦車と呼んでいますが、 大正時代当時は、 タンク と呼んで
いたのですが、 毒ガスの砲弾や、 航空機、 飛行船など、 いろんな新兵器が
前線に投入され、 多くの戦果を上げたり、 または、全く役に立たなかったり、
実験場という場所でもあったのです。
自分が在籍していた海軍は、 サブマリン こと、潜水艦に多いに興味を示し、
その研究に多くの人材と、予算をつぎ込んでいくことになります。
ドイツ帝国が、崩壊して、 戦争は終わり、 日本は、フランスや、イギリスの
余剰兵器となった、中古の飛行機を、 愚かな事に、莫大な法外な価格で、
買い付けて、輸入していくのですが、 彼等は、東洋人に中古のお古を
法外な値段で高く売りつけて、 儲けた金で、新しい兵器を調達していった
訳ですが、 乗る人を作らないと、 飛行機があっても飛べない訳で、
フランスに、数名を派遣したのです。
記録によると、1910年の明治43年の4月11日に 徳川 好敏 陸軍大尉と
日高 熊蔵 陸軍大尉は、 海路 フランスに渡り、 フランス國の アンリ、
ファルマン エンタプ 飛行学校に入学し、 5ヶ月程度そこですごした後、
すぐに帰国して、 同年 12月14日に、 東京府の代々木練兵場で、皇族方を
招いて、日本で始めて飛行機を飛ばしたと言うことになっているので、わずか
数ヶ月しか、 操縦を習わず、 見よう見まねで、飛行機を飛ばしたようです。
これらの飛行機という戦争の兵器は、 それまでは、戦争というと、遠く国境で
敵対国と戦争をするという,考えしかなかったのですが、 陸続きの欧州では、
これらの兵器が登場したことによって、 前線と、 後方の 区分がなくなったと
いうか、 後方の都市にも、航空機や、飛行船による爆撃が始まり、多くの
一般市民が、戦争に巻き込まれていくことになっていったのです。
そして、それらを防ぐ為に、 今度は、戦闘機という、 スピードが速く、空から侵入
してくる敵を撃破する、飛行機が作られていったのです。
ある兵器が作られると,その兵器に対抗する兵器が考えられ、 それの繰り返しで
飛行機という兵器は、どんどん進化を遂げていくことになります。
そして、 遠く欧州から離れた、日本でも、 飛行機を日本でも作ろうと、 こういう
人物が出てきたのです。
【次回に続く。】