第1012回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1011話 フランスのコウノトリ飛行中隊の事。  2014年11月29日 土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
    
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       日本陸軍は、明治の建軍以来、 大ドイツ帝国から、 教導団を招聘し、ドイツ式の
 
       軍隊、 つまり、軍律から、部隊編成から、陣地の構築まで、ドイツ陸軍式となっていた
 
       のです。
 
       日本の軍人でもなかった、 滋野 清武 男爵が、 フランスに渡航して、 フランス
 
       外人部隊に志願して、 第一次世界大戦に参戦されたというお話は、先に紹介しましたが、
 
 
       
       
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         フランス陸軍の中の、 コウノトリ飛行中隊 と呼ばれる、飛行中隊でありました。
 
         現在でも フランスの外人部隊というのは、 最前線に配置され、精強な部隊と
 
         して世界に認知されているのですが、 反面、 戦死する人が非常に当時から
 
         多かったのです。
 
 
 
 
 
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         当時のコウノトリ 中隊の生き残りの アンドレ デザロワ  少尉が、1967年
 
         の日本の昭和に直すと、 昭和42年に、航空雑誌 イカロス に投稿された
 
         資料によると、 1個飛行中隊 パイロット15名編成で、 半年後の名簿で
 
         名前が残っているパイロット というのは、 滋野 陸軍大尉 他、3名であった
 
         そうで、 そのような、最前線の消耗の激しい部隊の中にあって、大和魂
 
         発揮して、 次々武勲をたてられるというのは、たいしたものであったのです。
 
 
 
 
 
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           当時の話では、 滋野 フランス陸軍大尉は、 部隊の指導役をされていて、
 
           空中にあっては、 デザロワ 陸軍少尉の飛行機の 斜め後方にピタッと
 
           位置し、  不意に、ドイツ空軍に襲われて、 後をとられて、苦戦する最中でも
 
           後から援護してくれ、 難を逃れたことが多々あり、 彼と一緒に飛ぶと、安心感
 
           があったそうです。
 
 
 
 
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         滋野 フランス陸軍大尉の機体の胴体には、日本の丹頂鶴のマーキングがしてあり、
 
         その鶴のマーキングを見ると、守り神というか、 そう言う気分であったようです。
 
         これらの、戦訓で得た貴重な空中戦のデーターは、 滋野 男爵から、手紙で
 
         フランス大使館の、陸軍武官に手紙で知らされ、 多くの貴重な情報として生かされて
 
         いったのです。
 
         当時、フランス陸軍航空隊では、 単機でドックファイトするより、 2機がタックを組んで
 
         お互いが援護するわけです、 こうすると、 2機で、相手と戦うこととなり、
 
         実戦の空中戦では、 こちらが断然優位で、 この戦い方というのは、そのまま、
 
 
 
 
 
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           陸軍の航空隊に採用され、 大東亜戦争でも、 同様の戦闘形式が続き、
 
           戦後の航空自衛隊の、スクランブル発進での飛行編隊も、そのまま、2機編成
 
           というのは、現在でも続いています。
 
 
 
 
 
 
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           滋野 清武 男爵が、 フランスで残した足跡というのは、数年間でしたが、
 
           非常に、当時ヨーロッパ社会において、 日本人パイロットの好印象を与え、
 
           日本の大和魂を、 フランス人や、敵国ドイツ人に植え付けたのです。
 
 
 
 
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            このような事情で、 大正時代に入り、 日本陸軍は、それまでのドイツ式を
 
            大きく改め、 フランス式の兵器採用に大きく舵を切っていくことになります。
 
            機銃なども、フランスの機銃を採用していき、 飛行機についても、フランス
 
 
 
 
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           から、 教導団を招聘して、 すべてフランス式となっていったのです。
 
 
 
 
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           これらの事は、 当時欧州大戦での戦勝国であった、フランス軍のよい部分を
 
           日本陸軍に取り入れ、 陸軍を強くしていこうという、日本の前向きな一面で
 
           あったのです。
 
 
 
 
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             ところで、 1920年 大正8年に、エイマール ジャンヌ 婦人と帰国され、
 
             国際結婚の面でも、パイオニア的 存在であったのですが、 1922年、
 
             自分が、江田島海軍兵学校に入校して、 数週間して、長男 清鴻 氏が
 
             誕生し、 その後、 次男の 清旭 氏が、誕生していくことになります。
 
 
 
 
 
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           清鴻 【きよとり】 氏 は、ネコ好きで有名な人で、 横浜高等工業高校【 現在の
 
           横浜国立大学 】を卒業され、 ピアニストとなり、 ジャック 滋野 として、活躍され、
 
            たことでも知られ、 次男の 清旭 氏は、 ブルーコックという、バンドを結成し、
 
            ドラムの奏者としても知られ、その後、洋画家として活躍され、よく知られた
 
            存在です。
 
            お父上が、東京音楽学校の出身で、コルネットの奏者であったからか、
 
            ご子息の2名も、 ピアニスト、ドラム奏者として、昭和の音楽界で
 
            活躍されたのです。
 
 
 
 
 
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           日本人が、単身 ヨーロッパに乗り込んで、足跡を残し、 現地で称賛され、
 
           その活躍は、約100年近く経った、現在も人々に語り継がれているのです。
 
 
 
 
【 次回に続く。】