第1013回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1012話 大正時代の2重行政の始まりの事。   2014年11月30日 日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
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   自分は、大東亜戦争こと、太平洋戦争が敗戦し、九州の地で、皇室の皇統維持の為の
 
秘密の任務に就いた後、 企業の経営の後、航空自衛隊の創設に、装備部長として深く関与し、
 
現在があるわけですが、 日本は、なぜ、あの戦いをしなければならなかったのか、 日本は、
 
 
 
 
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なぜ、 連合国に負けていったのか、 どうして、なぜなのか、 そういうことを、考えるように
 
なっていったのは、 ちょうど昭和17年の後半から、 昭和18年にかけててありました。
 
 
 
 
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  当時の日本人というのは、団結心が強く、 みんな自分の事は、二の次で、国の繁栄を
 
大切にし、 命を投げ出し、 体当たりで相手に向かっていく、 みんな戦死して、一人になっても
 
 
 
 
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     最後まで、命をすてて、相手を攻撃する。 絶対、降伏などはしない。 こういう教育の
 
    元、 銃後を支える、日本の国民も、 我を忘れて一致団結し、1億の国民が火の玉となり
 
 
 
 
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    一団となって支えてくれた戦争に、なぜ負けていったか、 その原因は、戦闘機が、制空権を
 
    前線で獲得できなかったことが、大きな原因でありました。
 
    
 
 
    
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        南方のソロモンにしても、 マリアナにしても、 硫黄島などの小笠原諸島や、
 
        沖縄などの琉球列島にしても、 フィリピンにしても、戦闘機が、敵の戦闘機を
 
        撃墜して、制空権を確保できていれば、 爆撃機が飛来しても,雷撃機が飛来しても、
 
        間髪を入れず、撃退できでありましょうし。
 
 
 
        
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         日本の攻撃隊も、 途中で撃墜されて全滅するようなことも無かったでしょう。
 
        それでは、いったいどうして、戦場の空において、制空権が確保できなかったのか、
 
        なにが原因であったのか、 多くの人が考え、 結論を出し、 是正して、勝利を
 
        得ようと考えたのです。
 
        その末端の海軍将校の一人で、海軍省から,陸軍省との交渉に乗り出したのは、
 
        草加 龍之介 海軍中将や、 黒島 亀人 海軍少将や、自分でありました。
 
        そして、出て来た負け戦の原因が、2重行政であったのです。
 
 
 
 
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        そして、その負け戦の原因の始まりが、自分が海軍兵学校に入学した、大正10年
 
        の年から始まっていったのです。
 
        当時、米国の経済力が10とすると、日本は1であったのです。
 
        
 
        
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           この格差を埋めようと、 西洋諸国に追いつこうと、明治以来、日本海軍は、
 
           資金と、時間を惜しまず、 外国の人物を招いたり、 いろんな為になる戦訓を
 
           整理し、之を生かして、 教育に熱を傾け、 それは、陸軍も同様で、 海軍と、
 
           陸軍が、まったく同じような事を2重に行ってきた上に、
 
 
 
 
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            陸軍は、フランス式、海軍は、イギリス式を採用し、 航空機については、 
 
           陸軍の操作方法は、フランス式で、海軍の操作方法は、イギリス式で、
 
 
 
 
 
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          もともと、10倍の格差がある敵と、 1の力を、陸軍と、海軍で2でわると、
 
          0,5の力となり、 20分の1の力となってしまうのです。
 
          これらを是正しないといけないと言う考えは、海軍軍令部の中で、やっと昭和
 
          18年になって意見が認められ、 今度は、それを実行していく、強力な政治家が
 
          いないことでした。
 
 
 
 
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           当時、ドイツのヒットラー総統のような、独裁者が日本の政治を掌握していたら、
 
           鶴の一声で、 是正され、 飛行機の操作から、なにから、なにまで、是正されたで
 
           ありましょうが、 当時の日本の政治は、絶対的権力者が不在で、 寄り合い
 
 
 
 
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           所帯で、 時の内閣総理大臣東条英機 陸軍大将も、陸軍の中のことも、
 
           掌握が出来ていなかったため、 サイパンの陥落後、 御輿を放り投げられ、
 
           失意の内に退陣を迫られ、これらの重大な軍政の問題を是正できなかったのです。
 
 
 
 
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       昭和18年当時、自分は、 満州でヒマにしていた、陸軍のパイロットの精鋭を、
 
       マリアナ諸島に移動させ、 海軍の精鋭と一致団結して、陸海軍混成戦闘機集団を
 
       作って、 日本の絶対的防空圏の防空を完璧な物とした上で、 攻撃隊を整備し、
 
       敵に痛打を与え、 その上で、5分と5分の和平交渉に持ち込むべきだという考えの基、
 
       陸軍省と交渉したのですが、 陸軍がまったく、相手にしてくれなかったのです。
 
 
 
 
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       前線では、陸軍と海軍の飛行機の部品が、ネジに至るまで別物で、 機銃の弾も、
 
       別物で、 なにから、なにまで、別物で、交換性がなかったのです。
 
       つまり、前線の南方の島では、 潜水艦でやっと弾薬が届いても、 使えなかったり、
 
       ネジがひとつ無いが為に、 飛行機が飛べなかったりと、 補給に難儀をしていき、
 
       どんどん、 飛べる戦闘機が少なくなっていったのです。
 
 
 
 
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       そして、 搭乗員も、 陸軍は、目標物のない海上での飛行の航法について、教育が浅く、
 
       昭和18年には、南方へ移動する、陸軍の飛行中隊が、航法を誤ったのか、行方知
 
       れずとなり、陸軍としては、 南方の島々に、これ以上航空兵力を回せないと、首を
 
       縦にふらなかったのです。
 
 
 
 
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         つまり、 強力な敵に対して、 20分の1の力で、体当たりしていき、 弾薬にしろ、
 
         飛行機にしろ、 生産設備がひとつですむところが、 2重行政の結果、 プロペラの
 
         工場でも、 陸軍のプロベラを作り、海軍のプロペラを作り、 作る工作機械も、2重
 
         設備となっていき、 前線で、補給が滞り、 飛行機はあっても、 部品不足で、飛べ
 
         ないとか、 そういう見ていて、イライラするような事態になっていったのです。
 
         
 
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          これらの事が、原因で 制空権という物を、我が国が確保できず、 敵の航空機が
 
         自由に飛び回る結果となっていき、 輸送船が撃沈され、前線の南方の島は、
 
         補給物資が届かなくなり、飢餓に陥り、 飛行機があっても、燃料不足、 部品不足で
 
         飛べなくなっていき、 挙げ句の果てには、 日本国内の生産設備も、爆撃によって、
 
         崩壊し、 大日本帝国は、破綻して行ったのです。
 
 
 
 
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         大正10年というのは、 日本の航空史における、2重行政の元年と言うべき
 
        そう言う時代になっていったのです。
 
 
 
 
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          自分は、日本人が、欧米人と、1対1で勝負でき、 補給が、飛行機の整備が、
 
          完璧であったら、 日本が負けることは決して無かったと、断言し、「 原爆の
 
          3個や、4個 落とされた程度で、 負けることはなかった。」と、故郷の広島市内で
 
          発言し、 当時批判を受ける事になるのですが、 自分を含め、 自らを犠牲にし、
 
 
 
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           国のことを考え、 命を捨てて,火の玉となって国を守ろうとした日本男子の
 
           一人として,大東亜戦争の敗戦には、我慢がならなかったのです。
 
 
 
 
  【次回に続く。】