第1028回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1027話  財閥の研究会の事。       2014年12月15日 月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
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             大正8年、 ちょうど自分が15歳の頃始じまった、シベリア出兵では、
 
 
           多くの人が戦死されたり、 共産ゲリラ武装勢力によるロシア式の処刑方法で、
 
           斧で、頭を叩き割る方法で、民間人が多数殺害されていったのですが、
 
           その当時、 財閥の幹部の人達は、研究会を開いていたのです。
 
           研究会というのは、何かというと、 業種事の談合、つまり価格協定であった
 
           のです。
 
 
 
 
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           財閥は、山縣有朋公に多額の金銭を渡し、 陸軍から納入業者に指定され、
 
           わかりやすく言うと、 物資の輸送についての海運業者は、バラバラな価格で、
 
           陸軍に見積もりを持っていくと、 安い業者があり、高い業者がありで、てんびんに
 
           かけられて、単価が削られ、せっかくお膳立てした儲け話が、パーになって
 
           しまいます。
 
           そこで、 もうけが減らないように、各社が価格を統一して、陸軍と取引するわけ
 
           です。
 
 
 
 
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          海運会社にしても、 安い価格の仕事を2回こなして、100円利益を出すよりも、
 
          研究会を開いて、単価を調整し、1度、ウラジオストックと小樽の間を往復して、
 
          200円の利益を出した方がよいわけです。
 
          そして、業者を集めて、財閥が音頭をとって、仕事を割り振りし、 言う事を聞かない
 
          業者には、 やくざ物を使って、圧力を加えたり、 ひどい場合は、殺しをしたりと、
 
          闇では随分とひどい事が当時行われていったようです。
 
 
 
 
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            これらの陸軍省の納入指定業者の価格の研究会は、 各品目事に財閥の
 
          関係者によって取り仕切られ、米、酒、味噌、漬け物、ーーーー、すべての商品に
 
          渡って行われ、 山縣有朋侯爵に渡った金銭も、 この単価を上積みして、回収
 
          されていったのです。
 
          一通り、業者の割り振りが決定すると、 それぞれの財閥は、日本全国、海外の
 
          支店にまで注文を出し、納入品の確保を始めたわけです。
 
 
 
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          当時の内閣は、山縣有朋侯爵の配下の、陸軍大将 寺内 正毅 内閣総理大臣
 
          だったのですが、 軍人だったからか、 あるいは、財閥から圧力がかかったのか、
 
          市場の米などの価格調整を、放置したというか、 介入しなかったのです。
 
          米など,国民の生活に必要な必需品ついては、 価格を一定に留め置く、政府の
 
          介入が必要な時期に、それらを放置して、なにも対策をしなかったのです。
 
          当然、山縣有朋侯爵も、 自分の懐に財閥からお金を受け取り、 財閥の言う
 
 
 
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          なりに動いていった結果、 財閥が、 ○○の商品を注文して集め出すと、
 
          ブローカーの業者や、 地域の業者が普段よりお金を積んで買い取って行った
 
          のです。
 
 
 
 
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        すると、都市部の米屋の価格が、売り惜しみや、 投機的買いだめに走る米屋もあって、
 
        1円の物が、倍の2円になり、 さらに倍の4円になり、 さらに6円になりと、高騰して
 
        行ったのです。
 
        陸軍には、 「市場が品薄で、高騰していまして、 この値段で御願いします。」と、
 
        高い米を持っていくわけです。
 
        陸軍の担当者は、 業者を変えるわけにはいかないのです。 そんなことをすれば
 
        その先どうなるかと言えば、 山縣有朋侯爵側から、 攻撃され、 左遷されてしまうので、
 
        業者の言うなりの価格で買い取るわけです。
 
 
 
 
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           このような事の繰り返しで、すべての物が価格が数倍に値上がりしていき、
 
           都市部の庶民は、暮らしが成り立って行かなくなっていったのです。
 
 
           そして、 大正の米騒動と言われる、暴動に発展していき、全国的に、
 
 
 
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           米屋に暴徒が押し寄せて、放火して焼き討ち事件に発展し、 財閥はどうしたか
 
           というと、山縣有朋侯爵に陳情して、陸軍に治安出動を要請し、 財閥の支店や、
 
           倉庫などを警備を依頼し、 そこに押し寄せる市民を銃殺にしたり、武力鎮圧に
 
           乗り出したのです。
 
 
 
 
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           都市部の混乱、暴動騒ぎの反面、農村ではどうであったかと言うと、 青田買い
 
           といいますか、 まだ収穫してもいない田んぼに、「 出来上がったらよそより高く
 
           買うから、 うちに売ってくれ。」とか言う、 ブローカーや、商売人が殺到して、
 
           いつもは、100円の品物が、 200円、250円と、値がついて、挙げ句の果てに
 
           300円で売れて、 3倍で売れたと大喜びしていたのですが、中間問屋を経て、
 
           広島の宇品の港から船で小樽へ運ばれて、陸軍が買っていた値段というのは、
 
           600円だったのです。
 
 
 
 
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           財閥が絵を描いて、山縣有朋侯爵が船に乗って、進み出したシベリア出兵という
 
           出来事は、いろんな人の思惑が入り込み、 物資バブルを引き起こし、
 
           都市部の農地を持たない庶民の暮らしを直撃し、 生活が成り立たなくなる程度、
 
           物価が高騰していったのです。
 
 
 
 
 
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          そのような経済が混乱する中、 財閥から得たお金で、山縣有朋侯爵は、自身の
 
          趣味の庭園作りに邁進し、小田原や、京都に別邸を作り、日本庭園を造っていた
 
          のです。
 
          そして、 そのような、山縣有朋侯爵に、寺内正毅 内閣総理大臣も、意見でき
 
          なかったですし、大正天皇は脳の病気で表には出ることがなく、日本は戦争に
 
          どんどん進んでいったのです。
 
 
 
 
 
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            そして、現地のシベリアでは、タイガの森と、極寒の雪の中で、多くの兵士が
 
            戦死していったのです。
 
            財閥のお膳立てで、イギリス政府に戦争国債を買ってもらい、戦争をするための
 
            資金というのは、 これらの騒動で、大蔵省から財閥の懐に入っていき、
 
            あっという間に、資金が枯渇していったのです。
 
            気がついてみると、イギリス政府に対しての膨大な借金だけが残る結果と
 
            なっていったのです。
 
 
 
【次回に続く。】