第1035回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1034話 海軍兵学校 第52期の10人衆の事。 2014年12月22日 月曜日の投稿です。
【 大正時代の呉 鎮守府 正門 古写真 】
大正11年8月15日の午前中、 呉停車場に降り立ち、 西に徒歩で移動し、
途中、中通りで早い昼の外食を済ませて、西に進み、川を越えて、 河原石港
【 大正時代の 呉の中通り付近、 戦災で焼失する前 古写真 】
戻るため、8月の暑いセミの鳴く日に移動したのです。
戦後の映画などで、 海軍兵学校を「 赤煉瓦刑務所。」などと、悪く紹介する
映画会社がありますが、 多くの人が集まり、 ひとつの事をして行くには、
どうしても決まりという物が必要で、いろんな考えの人が集まる場所では、
いろんな人がいるわけです。
そう言うわけで、 軍隊の中にあっては、鉄の規律、 特に生死をかけた戦地
つまり前線という場所に赴く場合は、 死をかけた決まり、 つまり軍律がないと
組織は維持できないのです。
戦後の会社組織にあっても、いくら仕事が出来ても、 金儲けが上手でも、
全体の組織の規則が守れない人物,または、 組織を批判するような言動を
繰り返す人物は、組織として不要となっていくのです。
ところで、 先ほどいろんな人が集まりとお話ししましたが、自分は、広島県山縣郡加計
の故郷でも、勉学は優秀でありましたし、 広島市内に下宿して、広島第1中学でも、
周囲から一目置かれる存在でありました。
しまったのです。
生徒一人一人には、成績順に番号がつけられ、 座る場所まで番号順に座り、
食事をとるのも、 若い番号の人より、早くは箸がつけられなかったのです。
第52期の生徒は約300人程、大正10年の8月、1年前に入学して、その後、
成績の下位の生徒は、約30名程度、 表向きは自己都合の免官となっていますが、
軍縮による整理にあい、270名程度となっていたのです。
自分は当時、20番前後を、上に上がったり、 下に沈んだりしていたのですが、
上位の優秀な生徒というのは、 自分の目標でもあり、とても太刀打ち出来ない
人達でもありました。
では、年上の同期の優秀な面々は、 自分とどう違っていたのか、観察し、
研究することになっていったのですが、 随時、 優秀であった、目標でもあった
生徒を紹介していきたいと思います。
【次回に続く。】