第1059回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1058話 新しい特務艦 鳳翔の就役の事。 2015年1月15日木曜日の投稿です。
大正11年8月頃、日本の大蔵省の国庫は、 国債の利払いも出来なくなる程度
破綻に貧して、 当時の 加藤 友三郎 内閣総理大臣は、 命をすてて、
陸軍や、財閥、 海軍の派閥に、 斬り死に覚悟で切り込んでいき、
多くの事を、短期間で強行に実行していったのです。
していた頃、 日本の各造船所で建造されていた、最新鋭の戦艦も、 工事が
中止され、 スクラップにされることが決定されたのです。
【 軍縮で解体される戦艦 】
が建造中であったのですが、処分されることとなったのです。
これらの艦船が完成した暁に、乗艦する予定として、養成されていた海軍士官が、
海軍兵学校、 第48期から、第52期の 自分達のクラスまででした。
そう言うわけで、 自分達のクラス【当時の学年の事】は大勢300人ほど、採用と
なったのです。
ところが、 乗り組む予定の艦艇が建造中止となってしまい、 自分達は、不必要な
海軍見習士官となり、 軍縮整理の対象となっていったのです。
そのような中にあって、例外で工事が進んでいる特務艦があって、 名前を
鳳翔 【 ほうしょう 】 と呼んだのです。
大正11年当時、 まだ,日本や世界には、 航空母艦 という単語が存在せず、
当時は 特務艦 と呼ばれていたのです。
鳳翔は、 戦後の軍事雑誌には、「日本が世界で初めて航空母艦をゼロから建造して
ーーーーー云々。」 と、お決まりに紹介してあるのですが、それは、誤りであって、
財閥の三菱が、イギリスから法外な金額で、 イギリス人の フレディレック ラトラント
と言う人を、日本に招聘し、 彼と、 大正10年に土浦に教導団として、来日していた
ウイリアム、 フォープス、センピル 教導団の一団が、指示を出しながら、日本の
横浜市の 浅野造船所と言うところで、建造されたのです。
進水後、横須賀の海軍工廠に入れられて、飛行甲板の艤装工事を施して
ちょうどシベリアから、陸軍が撤退完了の、 翌々月、 特務艦 鳳翔 という
名前で、大正11年12月27日の年末に就役したのです。
基準排水量が、 7470トン 全長が165メートル 幅が22,7メートル
速力が25ノット 乗員が550名の性能でありました。
当時、戦艦の防御装甲は、非常に分厚く出来ていて、 飛行機から爆弾を落としても、
はじき飛ばして、 海に落ちてしまい、効果が薄いと考えられていたのです。
水雷艇を作ろうとしたわけです。
そして、 素早く飛んでいき、 魚雷を投下して、 戦艦の喫水線の下に命中させ、
側壁を破壊し、進水させて、 撃沈しようという、新しい戦術でありました。
それまでは、 敵の戦艦の側面を射撃して、穴を開け、進水させて撃沈するという
戦法が主流でありました。
そう言うわけで、 大正11年当時の構想としては、 雷撃機を登載して、
敵の戦艦を強襲して沈めようという、 こう言う考えであったのです。
机上では、 特務艦 鳳翔には、 常用機 15機を登載して運用する予定だった
のですが、 思わぬ、予期せぬ事がおきていったのです。
この鳳翔の艦長を勤められ、 その後、 真珠湾作戦などを一緒に戦う事となる
草加 龍之介 海軍中将の当時の昔話を 次回、色々紹介したいと思います。
【次回に続く。】