第1068回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1067話 空母着艦賞金1万5千円の事。 2015年1月24日土曜日の投稿です。
神奈川県の横須賀市 追濱の 現在の海岸沿いにある自動車メーカーの
日産自動車の工場付近に、 大正時代当時、 海軍横須賀航空隊の滑走路
軍の飛行教導団の協力を得ながら、新しく完成した、 10式艦上戦闘機、
イギリスの飛行教導団の面々は、 同盟国であった大日本帝国が、巨額の資金で
彼等を招いたと言うこともあるのですが、 本来の目的は、フランスの飛行機が幅を
を日本海軍に売りつけて、 現金化して、本国に持ち帰るという目的があったようです。
来日当初は、早く帰りたいというような顔つきの人ばかりであったようですが、日本人
が休憩時間を惜しんで、早朝から日暮れまで、 航空機の技術習得に打ち込む姿に
心を打たれたのか、 数ヶ月経つと、 何事も積極的に、指導してくれるようになって
行ったようです。
日本海軍では、毎年11月から12月が転勤の季節で、 横須賀航空隊では、
大正11年11月1日 付けで司令が、田尻 唯一 海軍大佐から、丸橋 清一郎
の3機種とも飛行については、おおむね良好なるも、 10式艦上攻撃機については、
雷撃時の操作が搭乗員一人では難しく、 機体が大きすぎて改良の余地アリと
評価され、 3機種とも、 特務艦 鳳翔については、 着艦が難しいと言う評価が
されて、 海軍省に送られたのです。
当時は時節柄、 軍縮で予算管理が大変厳しい時代で、この報告書を読んだ、
生産されていたのですが、生産の中止と、 試験運用の成績から、 一人乗
りから2人乗りに、 そして、もう少し機体を小さくするよう要求が出されたの
です。
そして、 鳳翔を海上の航空基地にしようという構想自体が、無理な構想では
ないかと言う意見が、大正11年年末に、海軍省内で高まっていったのです。
そのような状況の中、 大正11年12月27日 世界で初めての航空母艦の
特務艦 鳳翔 【 ほうしょう】が、横須賀海軍工廠で 完成し、年末に竣工
したのです。
当時、 飛行甲板から艦上機が飛び立てても、 着艦出来ず、 陸上基地に
戻らねばならない場合、 従来の水上機の方が運用には適している
のではないかという、意見もあって、 世界で初めての艦上機の運用
に暗雲が立ちこめたのです。
大正11年の年末にこの情報を耳にした、三菱財閥の実質オーナーの、加藤 高明
貴族院議員は、多額の資本を投入して、愛知県に飛行機工場を作り、 その製品の
10式艦上攻撃機が、 生産をわずか20機程度で、発注が打ちきりとなったと聞いて
なんとか、赤字にならないように独特に知恵を出して、関係者にネジを巻いて
行ったのです。
どんなネジの巻き方かというと、 財閥の経営者らしいというか、 賞金でありました。
世界で初めての 特務艦 鳳翔の飛行甲板に、世界で初めて着艦できる知恵を
出して着艦した人物には、 「 賞金 1万5千円を三菱が海軍省を通じて進呈
申し候。」と、発表したのです。
戦後の現在、1万5千円というと、おこずかい程度の金額ですが、 大正11年
当時の1万5千円は、 なにを基準にするかで、価格が前後するのですが、
はがきを基準にした場合、 当時の価値を現在の価値に直すと、約3900万円
の価値に相当し、田舎ですと、 広い敷地に家が建つ程度の大きな賞金で
ありました。
当時の価値で、家が建てられる程度の賞金が出るらしいと聞いた、当時の
のですが、 みんな、「 出来っこない。」 と、 あきらめて、志願しようとしな
かったのです。
みんな、一つしかない命は、事故になって、墜落して、なくしたくなかったと
いうのが本音だったようです。
そのような中、 あるパイロットが 命をかけて挑戦すると志願したのでした。
【次回に続く。】