第1070回 昭和の伝道師【戦中戦後のパイロットの物語】
第1069話 「我、英国の先生の腕前を見せつけられたり。」の事 2015年1月26日月曜日の投稿です。
大正12年2月22日 いよいよ世界で初めての、後に航空母艦と呼ばれる、
特務艦 鳳翔 【ほうしょう】への着艦実験が、神奈川県の横須賀の沖合の
無線機などの便利な物はなく、 飛行機のパイロットと、 鳳翔との間で、どうやって
連絡を取り合って、 意思の疎通を取り合うかという事が、問題として提起された
のです。
そして、その連絡手段として用いるのが、日本海軍が当時多用していた、手旗
信号によって、 空中の飛行機のパイロットと、連絡を取り合うこととなったのです。
甲板士官によって、誘導のために用いられています。
つまり、 手旗による誘導着艦については、日本人が元祖というわけです。
鳳翔を設計した、イギリス人技師、 フレデェリック ラトラント技師や、 センピル
飛行教導団の面々や、 横須賀航空隊司令 丸橋 清一郎 海軍大佐などが
見守る中、鳳翔艦長 豊島 二郎 海軍大佐の指揮で実験が開始されたのです。
鳳翔は飛行機が着艦する場合、右舷の側面の3本の煙突を 横に横倒しに
するように設計されていたのですが、 それをやっても、両舷を全速にして、
タービンを回すと、 とてつもない煤煙が発生するのです。
後に、 この煙突の煤煙の処理をどうするかと言う事は、 大変悩ましい
事案となり、加賀の煙突のように艦の中央から、艦尾に煙突を引っ張ると、
煙突の周辺が、すさまじい高温となり、 人間が倒れるほどの熱気が発生し
大きな問題となっていったのです。
良い見本として、上の画像の戦艦の煤煙を見ていただくとわかりますが、
蒸気機関車どころではない、 ものすごい煙が出るのです。
鳳翔が、全速航行をすると、 煙が艦尾に流れるのですが、 そうすると
どうなるかというと、 後から着艦するパイロットの視界の妨げになるのです。
つまり、黒い煤煙の中に航空機が突っ込んでいく形となり、大変着艦に
困難をもたらせたのです。
鳳翔は、横須賀軍港を出港して、 猿島沖合で、転舵して、 風上に進路を
とって、両舷全速航行をして、 煙突を横に倒して、ジョルダン大尉の着艦を
待ったのです。
数回旋回した後、後方に回り、高度と速度を落として、着艦の進入を低空で
行ったのです。
この時のお話ですが、 正面が、鳳翔の煤煙で遮られ、視界が悪く、 また、
飛行甲板が大変小さく見えたそうで、そして、 速度を失速すれすれまで落として、
グライダーの様に、滑空する感じで艦尾 甲板に飛行機が降り立ったのです。
この飛行甲板の向かい風を利用した着艦の方法は、その後、 イギリス海軍、
する場合、 飛行機を着艦して収容する場合は、 風上に向かって、全速で
航行して、飛行甲板に風を起こすのです。
つまり、 航空母艦が、赤城クラスの場合、 33ノット、 時速70キロ程度で、
航行するので、 この航空母艦を護衛しようとした場合、 同程度の速力を有する
駆逐艦などの高速艦艇でないと護衛が難しいとなっていったのです。
つまり、 戦艦大和や,武蔵などの、最高速力が25ノットしかでない艦艇は、
艦隊行動をするにおいて、お荷物となっていくわけで、航空母艦を中心に
機動部隊となっていったのです。
みんなが見守る中、 オーバーラーンぎりぎりで、なんとか飛行機は停止して、
のでした。
【次回に続く。】