第1071回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1070話  「イギリス人に続け。」の事。        2015年1月27日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
     
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 大正12年の2月22日 に行われた、イギリス軍の飛行教導団の提案による

着艦実験は無事完遂され、 当時の金額で1万5千円、現在の貨幣価値に直すと、
 
 
 
 
 
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  約4000万円という、 三菱が用意した賞金が、海軍省を通じて、 成功した
 
 パイロットの ウイリアムジョルダン 大尉に贈呈されることになったのです。
 
 
 
 
 
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当時の横須賀軍港では、「 さすがは、大英帝国の先生方、肝が大きい物よ。」と、
 
 
 話題となり、 みんなが英国人を尊敬するようになっていったのです。
 
また、 当時、海軍の軍縮で、 暗い話題が多かったのですが、この勇気ある快挙に
 
新聞などで、多くの人が知ることとなり、「世界で初めて、海上を航行する艦艇に
 
着陸した、大英帝国軍人として、 名前が広まったのです。」
 
 
 
 
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 当時の茨城県阿見村の飛行場でも、「 賞金1万5千円は、イギリスの先生が
 
 獲得されたらしい。」と、 噂が広がり、 センピル 飛行教導団の人々も、
 
 鼻が高かったようです。
 
 
 
 
 
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 当時、 海軍元帥であられた、 東郷平八郎 海軍元帥が、茨城県阿見村の
 
 飛行場を視察され、 日本海軍に、この着艦実験の成功は、 新しい航空機の
 
 可能性を知らしめる結果となったのです。
 
 
 
 
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 当時の海軍省内の 航空三隊計画の推進者であった、  山路 一善 海軍
 
 中将や、 イギリスから航空母艦の原型の構想を持ち帰った、 金子 養三
 
 海軍大佐や、推進派の山内 四郎 海軍少将は、「 英国人に出来て、大和人
 
 にできない訳がない、 日本人で海上から飛行機を飛ばして、 着艦して、鳳翔を
 
運用するのは至上命題であるとして、横須賀海軍航空隊司令の、丸橋 清一郎
 
海軍大佐に、 日本人による着艦訓練の早期実施を横須賀鎮守府経由で命令
 
したのでした。
 
 
          
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        【 横浜鎮守府司令長官 副官 草鹿 龍之助 海軍大尉 】

 
 
 時、横須賀鎮守府 司令長官 副官であられた、 草鹿 龍之介 閣下の
 
 後のお話では、 「 英国人に続け。」 と、 長官が号令を出したそうで、
 
 追濱の横須賀海軍航空隊から、 志願者を募って、 日本人による着艦
 
 訓練が行われる事になったのでした。
 
 
 
 
 
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そして、用いるのは イギリス人と同様に、新式の三菱内燃機(株)の10式艦上
 
戦闘機 が用意され、 1923年 大正12年3月5日 横須賀海軍航空隊から、
 
吉良 俊一 海軍大尉が、 操縦幹を握ることになったのです。
 
           
 
 
【次回に続く。】