第1097回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1096話 爆薬の恐ろしさを学習する。    2015年2月22日 日曜日の投稿です。








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        大正12年2月26日の月曜日、海軍兵学校第52期の生徒は、呉海軍工廠を訪問し


       その中の火薬廠を見学することになったのです。


        当時、 加藤 友三郎内閣の軍縮で、 後に乗り組むことになる、建造途中の加賀の船体が、

        放置されていて、 10年間は大型艦の建造が出来ないと言う事で、 ずいぶん寂しい

        海軍工廠の風景でありました。





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        当時の呉海軍工廠の 工廠長は、金田 秀太郎 海軍少将で、【海軍兵学校 第21期卒】

        金田閣下は、日本海軍の火薬の専門家として知られていて、 海軍火薬工廠の設立準備員

        でもありました。




     

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          自分達が見学の為、呉火薬廠を訪問した年の、12月1日附けで、 海軍中将に

          進級され、 その後予備役になるのですが、 自分達の見学の目的は爆薬の

          恐ろしさを知ると言うことでした。


          当時の爆薬というのは、戦後の人は知らない人がほとんどですが、花火の火薬とは

          色が違っていて、 黄色い色をしていたのです。



          

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           戦後のみなさんは、 黒っぽい色の火薬は見たことが多いと思いますが、 

          日本海軍の爆薬というのは、黄色い色をしていたのです。

          当日は、 どのような物から爆薬を製造するかという、そんな難しい話を、簡単に

          海軍兵学校の生徒に説明があったのです。


           日本海軍は、 ドイツ人から、下瀬さんと言う人が、 金銭契約を結んで、この


           爆薬の製造方法を教わり、 生産して、日露戦争日本海海戦で大きな効果を

           もたらしたのですが、 発射したときに、煙が少なく、視界を確保するのに有効で

           あったのです。





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            ロシアの火薬は、旧式で、発砲すると 黒煙で見えなくなり、その間、次の狙いが


            つけにくかったのですが、 日本の新式火薬は、煙が少ないので、次弾照準が

            容易であったのです。

            そして、 爆発力が非常に大きかったのです。



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           その原料というのは、石炭で、 精製して、フェノールという、液体を作り、


           その物質から、 ピクリン酸 という、黄色い物質を精製して作るのです。

           このピクリン酸というのは、 消毒液としても使用出来るのですが、これに


           手を加えて、 ニトウミン化合物を作るのですが、 なにやら、難しい化学式を

           紹介され、 当時、化学の授業を受けているようでありました。





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   そして、こういう黄色い物質が出来るのですが、大変強力な爆薬であったのですか、 欠点が

   あって、金属に接触すると、 化学反応を起こして、 爆発するのです。

 

    大正時代の日本海軍の爆薬は、 金属と接触すると爆発するので、 周囲をウルシで塗装し


    さらに、 固形油、 戦後で言う、ワックスのようなもので覆ってあったのです。





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    しかしながら、戦後、横須賀で展示されている、 三笠のように、 火薬庫が爆発し、多くの死傷者

    が発生したり、  1917年  大正6年1月14日には、横須賀軍港 停泊中の 高速巡洋艦

    筑波 【つくば】 が、 突如、 火薬庫が爆発して、 沈没したり、 翌年の大正8年の7月12日には、

   山口県の徳山湾で、 戦艦 河内 【かわち】が突如、火薬庫が爆発して沈没し、621名が殉職

   するという、火薬庫爆発事件が続いて行ったのです。

   その後、日本海軍の爆薬というのは、 トリニトロトルエン や、 コルダイト に原料が変化して

   行くのですが、 大正時代の当時は、非常に危険な爆薬であったのです。

   そういう、 危険物の説明や、 多くの爆発事件の説明があって、 取り扱いには、慎重に、

   また、その管理には、厳正さを求められたのです。




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         しかしながら当時、 多くの生徒も同様でありましたが、 黄色い爆薬が金属にふれると


         化学反応で爆発するという説明を聞いて、 砲弾や、 薬包にふれるのが命がけ

         の作業であることを知らされたのです。



          【次回に続く。】