第1098回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1097話 下瀬 雅允 博士の事。 2015年2月23日月曜日の投稿です。
ところで、日本海軍の用いていた爆薬というのは、大正時代はずいぶん危なっかしい品物で、
黄色いきれいな粉なのですが、 ひとつ間違うと、 戦艦などの軍艦の火薬庫が爆発して、
沈んでしまうと言う事故が多発して、累計で千数百人の将校、下士官、水兵が事故死したのです。
その火薬を考えた人というのは、 元々はドイツ人の技師で、 それを下瀬 雅允 【 しもせ
まさちか】 博士という人が、改良した物でありました。
【 勲三等 下瀬 雅允 博士 】
下瀬 博士は、明治の後半に52歳で他界されていて、 お会いしたことはないの
ですが、 自分の母校の先輩でありました。
広島藩士 鉄砲方 の下瀬という、士族の家に生まれ、 広島英語学校を卒業され、
この広島英語学校というのが、 後に、広島県立 第1中学 となり、 その後、
広島県立 国泰寺高校になっていくのであります。
初めは、 印刷所の技師をされていて、インクの改良をされていたのですが、
後に、爆薬の開発をすることになっていくのです。
新型の大砲などの開発は従来通り続けられていて、 自分達は一通り、
説明を受けていったのです。
そして、 砲身の製造などの工程も見学することになっていったのですが、
その日の午後は、 急いでとなりの島の 倉橋島という島があって、戦後の
現在は、 橋で車で移動が出来るのですが、大正時代には船で移動して、
島に渡ることになったのです。
その倉橋島の1番南東には、 亀ヶ首 試射場 という、海軍の秘密の
射撃実験場があって、自分達は午後から、 見学に行くことになったのです。
【次回に続く。】