第1101回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1100話  陸軍士官学校 校長 津野 一輔 陸軍少将の事、

                                 2015年2月25日木曜日の投稿です。








   大正12年の3月2日 金曜日の日に、 広島市の宇品港から 出迎えの汽船にのられて

 当時の 陸軍士官学校 校長 津野 一輔 陸軍少将とその一行が、海軍兵学校の正面玄関

 の西側桟橋に到着されたのです。



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       当時の広島市は、西日本一の軍都で、 日露戦争では、 東京に替わり、 臨時の

     首都になり、 国会議事堂や、 国会議員の面々や、官僚も、広島市に移動して


     政治が行われ、 大正時代も、 第五師団司令部や、陸軍幼年学校などもあり、

     陸軍の重要な拠点でありました。





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         【  津野 一輔 陸軍少将  後の陸軍中将、 陸軍次官 近衛師団長 】



   陸軍士官学校の 校長先生の 津野 一輔 【つの かずすけ】 陸軍少将は、

   どのような人かと言う事は、以前紹介したのですが、 少し再度紹介すると、 

   陸軍の 山縣 有朋 陸軍元帥の系列の 長州閥の軍人の実力者で、当時、長州閥

    総帥の 田中 義一 陸軍大将の後継者と見られていた将官で、 海軍兵学校

    訪問した年の、 大正12年の8月には、陸軍中将に進級され、 陸軍次官、 そして

    近衛師団長を歴任されるのですが、 ある日突然、 病死され、周囲に惜しまれた

    軍人でありました。




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    そして、海軍関係者が話しを聞きに押し寄せたのは、 シベリア討伐のお話を

   聞きたかったようで、 津野 陸軍少将は、 少し長くて覚えにくいのですが、先の

   ニコラエフスク、ラッ、アッムッーレでおきた、 共産党ボルシェビキ勢力による





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   西洋人、日本人6千数百人が斧で頭を叩き割られて虐殺された、 通称 尼港事件

 の 救援討伐軍の軍司令官であり、  その後遠征が行われた、 サハリン占領の、 


  サガレン州 派遣軍の参謀長【副司令官】でもありました。





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   昭和の戦後、忘れ去られてしまいましたが、 大正時代に、 ティーヴィーエール共和國


  と言う国がロシアの沿海州にあって、日本はこの国と戦火を交えていたのですが、当時、

 日本軍は、 樺太【カラフト】に侵攻し、ここを占領して、 北部の油田を手に入れる事に

 成功したのです。

  その樺太に派遣された陸軍の軍隊を サガレン州派遣軍と呼び、 尼港事件などの

 救援、共産党軍の討伐の軍隊を、 北部沿海州派遣軍と、 当時は呼んだのです。





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         【 ウラジオストック市内を行進する 日本陸軍部隊  古写真 】




  海軍関係者としては、 武力討伐の 戦話が聞けると言う事で、 戦史好きの将校は、

  呉鎮守府などからも、 船を仕立てて、 江田島海軍兵学校に転進してこられた

  のです。





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    残念な事に、自分達は津野 陸軍少将の前歴を知らなかったので、 当時は、

   陸軍の士官学校のお話でも紹介してもらえると、 こう 考えていたのですが、




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    海軍兵学校の大講堂でお話を聞いたのは、随分と違った内容であったのです。




          【 次回に続く。】