第1103回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1102話  津野 一輔 陸軍少将の講話 一致団結の事。

                                                          2015年2月28日土曜日の投稿です。




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   【  平和な商業都市であった、ニコラエフスク、ラッ、アムーレ の港街 】




  共産党武装勢力は、 兵力3千人で、 人口1万2千人の冬のニコラエフスク、ラ、

アムーレの都市を包囲し、教会、 銀行、商店を襲い、金銭、物資を略奪し、銃を突き

つけて、市民を広場に強制的に





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集めた中で、 銀行員や、商店の経営者の家族を、 見せしめで、 斧で頭を

叩き割って、殺害に及び、女、子供、老人まで、一家ことごとく、頭が真っ二つに

なるのを見せつけられた市民は恐怖におびえ、その後、共産党武装勢力は、 

商店などの物資を食べ尽くすと、 イナゴの大群のように、市民の家などを襲い、

 物資の調達を始めたのです。



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共産党の基本的な概念は、 資産の個人所有を認めず、宗教を否定し、すべての

食料物資資産は国の物、 共産党の物なので、 お金や、食料などの物資は、 

共産党が1カ所に集めて、 市民に平等に分配しないといけないと言う、考えで

あったようです。

つまり、 寒い冬場に、家族が食べて行くために保存していた食料なども、 小銃を

突きつけて、朝鮮人や、中国人の労働者から情報を聞き出して、 資産のありそうな

家から、現地調達を始めたわけです。
 






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密告を奨励し、 その家に押しかけ、 食料を発見すると、 個人主義の資本主義者

と決めつけ、家族全員を逮捕し、 家々に報復と称して、火を放ち、また広場で

、見せしめのために、 子供まで、斧で頭を叩き割ったのです。






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                  【  水戸第2連隊  第3大隊  駐屯地 】


   これらの行動を、 現地の日本陸軍や、日本海軍は、座して見ているのみであった

のです。


理由は、 水戸の第2連隊長から、「 日本人保護のために駐屯しているので、 余計な

交戦は避けるべし。」 と言う、命令が出ていたからでありました。





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       【 日本人遊郭を占拠し、記念写真を撮影した 共産党 幹部 古写真  】




そして、その後、共産党ユダヤ人、アメリカ人、英国人、日本人などの外国人居留民

の民家に徒党を組んで押し寄せ、 物資の略奪を始めたことで、 陸軍の駐屯する、

水戸第3大隊と 海軍の陸戦隊50名は、共産党武装勢力戦火を交えて、 その後

降伏し、 全員 軍医、看護婦、 




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戦傷者も含めて、 斧で頭を叩き割られて殺害され、 外務省の日本領事館の職員も

、家族も皆殺しになるのですが、 わずか3ヶ月の間に、人口1万2千人の都市で、 

約半数の6千数百人が、虐殺されるという大きな事件になっていったのです。






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    6月に 旭川の連隊が救援に駆けつけたときには、 頭を叩き割られた遺体が散乱し、


  平和な商業都市は、 廃墟と化していたのです。


   この当時の共産党というのは、 生産と言う事を行わず、略奪と行うことで生計を

立てていたようで、 大変悲惨なお話を 自分達は聞いたのです。


    陸軍が調査を進めていくと、 中国人や、朝鮮人共産党に加わり、

   港に停泊していた中国軍の艦隊が、 共産党と手を握り、 水戸の第3大隊を

    砲撃してきたという話を聞き、会場の全員は、怒りを覚えたのです。




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            【  当時の 外務省職員の死を知らせた、 新聞の記事。 】



     水戸連隊の 第3大隊の面々は、降伏し、その後、斧で頭を叩き割られて

          処刑されたのですが、 このような、末路をたどるのであれば、 一致結束し、

        肉弾となって 突撃し、ひとりでも地獄に道連れにして、果てるべきであったと、

        こんなお話を聞いて、 当時自分達は、津野 一輔 閣下のお話を聞いて、 

         その通りであると、 考えたのです。 

     
     考えて、検証してみると、 現地の部隊は、 こう言う末路になるのであれば、 

           町の外で兵力が少なくても、相手の急所を急襲して、 一撃を加え、 織田

          信長のように、相手の本陣に切り込むべきであったと、 当時考えたのですが、

        戦後考えて見ると、現地を見てない、連隊長の命令に縛られて、 後手、後手

         にまわり、 追い詰められていった


    こういう顛末が目に浮かび、後からどうのこうの言うのは、 死んだ人に気

        の毒だと 考えるようになっていったのです。




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   大正時代に このような悲惨な出来事が日本国内に伝えられ、中国人や、朝鮮人


日本人や、西洋人の居留民への 残忍な行為が伝えられ、 日本国内では、中国人


や、 朝鮮人は、非道きわまりなく、 信用が出来ないという、新聞記事や、 雑誌などの




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 記事で紹介されることになり、 数ヶ月後、 また大きな事件に発展していくのですが、


 また 順番に紹介したいと思います。



        【次回に続く。】