第2回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2012年2月2日木曜日投稿です。
第1話 病床で、過去を偲ぶ。
私の名前は、淵田美津雄、元海軍大佐、昭和51年3月初旬、豆炭のこたつに
入っていて、右足の甲の裏まで、低温やけどを負ってしまい、医者嫌いのため、
家で養生していたのですが、だんだんとひどくなり、妻の春子が、口やかましく、
病院に行くことをすすめるのですが、医者には不信感を持っていて、どうもその
気にならない、
神経が麻痺しているので、いたくもかゆくもないのですが、やけどがだんだんと
化膿して、ふくれあがり、31年前の広島の原爆の被害者のやけどを思い出すよう
な、ひどさである。
妻が呼んできたのであろうが、義理の兄の北岡又市郎と義理の妹の楠田敏子が
3人で、ガミガミとけんかごして゛元海軍軍医の「吉岡先生に見てもらうだけ、見ても
らっては。」というので、仕方なしに、車に乗せてもらい、病院に行くことにしたのです。
実は、数年前から、糖尿病が悪化して、白内障もあるのですが、目が見えなくなり、
文字も読めなくなってしまったのです。
自分の回顧録を執筆中に、視力を失ってしまい、まことに痛恨のきわみ。
右足をやけどしても、わからないぐらい、神経が麻痺して、糖尿病は恐ろしい病で
あります。
海軍兵学校で、鍛錬し、身体には自信があったのですが、ここに至っては、残念
至極です。
元海軍軍医の吉岡医院長に診断してもらったところ、最悪の場合、足を切断しなく
てはならなくなると、告げられ、巽外科病院に入院しろと言う、病院はいやだという
と、巽医院長も元海軍軍医だから、安心だと告げられ、仕方なしに、そのまま入院
となったのです。
病床の上で、ふと思ったのが、トラは死んでも皮を残す、ということわざがあるの
ですが、自分もつい最近、回顧録みたいなものを書いておけば良かったと思うよう
になったのですが、目が失明し、文字が見えず、かけず、足がだめなため、動くこと
が出来ず、後の祭りです。
後悔しても仕方がない、妻の春子には、申し訳ないが、すこしづつ聞き取ってもらい
毎日少しずつ書き残すことにしたのです。
この病院の病室での毎日少しづつではあるが、淵田美津雄の回顧録の整理の
始まりです。
【 次回に続く。】