第3回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロット物語】

第2話 父母の話の事、        2012年2月3日金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
人間、目が失明すると、夜も昼もなくなり、時間がよくわからなくなります。
 
妻が看病しやすい、自宅のある奈良県橿原市の巽外科に入院したのですが、

視力のよかった海軍パイロットにしてみれば、目が見えないというのは、つらい事

で、さらに耳も遠くなっているようで、どんどんと体の衰えが、自覚症状があり、

自分に残された時間は、そんなにないようです。
 
目が見えないので、巡回してくる看護婦の声で、様子がわかる程度で、
 
妻の春子も、私と同じ糖尿病で、私ほどひどくないのですが、家に、猫と犬を飼って

いて、朝ご飯を、与えてから巽病院に付き添いに来るのでありました。
 
 
 
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やっと病室に、妻が来たようです。
 
「かあさん、犬や猫はどうしている。」とたずねると、春子が、「犬を散歩する時に、

グイグイ引っ張るので、大変でしたよ。」と、話かけてきたのです。
 
トイレも一人で行けないため、おむつを替えてもらい、恥ずかしい限りです。
 
 
 
 
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           【 アメリカで宣教師をしていた頃の主人公 】
 
 
 
今日は、自分の父と母の話をしようと思います。

自分の父は、やぞう、母は、シカという名で、父は、今で言う小学校の教師でして、

明治元年1月2日生まれで、漢詩に詳しく、書も達筆でありました。
 
私が生まれた頃は、母の話では、奈良県北葛城郡磐城村長尾の小学校の

首席訓導であったらしいのです。
 
今風で言えば、教頭先生というところか、私は、教師夫婦の次男として、ちょうど

八甲田山の遭難事件の頃の明治35年寅年の12月3日に、農家の土蔵風の

離れの2階に部屋を借りていたらしく、1階は、馬屋で、その2階で生まれたらし

いのです。
 
聖徳太子の厩宿の王子ではないですが、馬小屋の上で生まれるとは、なんと

いう縁か、すぐに、日露戦争が始まり、当時の世論は、戦争一色であったそうです。
 
母、シカは、体が弱く、持病があり、私が医者になってくれたらと希望していたようで
 
妻の春子が、「お父さん、そんなにたくさん書けないわ、私老眼で、字がよく見え

ないんだから。」
 
「貴様、何を言っておる、今始めたばかりではないか。」
 
「それは、しゃべるのだけなら速いわよ、字にしようと思ったら大変よ、少しずつにして

いただかないと。」
 
こんな具合なので、本日の話しの整理はこのくらいにしようと思います。
 
又、明日の作業としたいと思います。
 
 
 
【次回に続く。】