第4回 昭和の伝道師【戦争中、戦後のパイロットの物語】

第3話  幼児の頃の事。        2012年2月5日日曜日投稿です。
 
 
 
 
自分の目が糖尿病と白内障で失明したため、文書も書けず、まるで暗闇で、

夜と朝もわからず、情けないかぎりです。
 
妻の春子が病室に来てくれたので、昨日の続きから再開です。
 
 
 
 
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  私が2才の頃、日露戦争が始まり、奈良県の田舎にも、戦争の影がのしかかり、

周囲の男達は、戦争にかり出されていたようで、自分を出産したあと、母のシカは、

体調が悪い日が続き、難儀をしていたらしいのですが、幸い自分は、色白で、ほお

っぺたが赤く、比較的元気で、病気もせず、生活できていたそうです。
 
 
 
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                     【  兄 赳雄 と 私  2才の頃 】
 

皆さんもそうであろうと思いますが、2才の頃の記憶などないので、母親や、父親

に聞いたことをそのまま整理しようと思うのです。
 
父のやぞうには、前妻がいて、 長女を産んで、しばらくして、長女は生後5日で

他界してしまい、初めの母親も、産後の日だちが悪3ヶ月後に他界してしまった

ようで、私の母親は、その後、淵田の家に後妻として嫁に来たらしいのです。
 
そして、長男を出産したのですが、かわいい盛りの5才で、病気で他界し、その後、

次女のシヅ、 そして、私の兄の次男の赳雄、 三男の私、美津雄と、そして少し

離れて、三女の千代と、私が下から2番目の子供でした。
 
 
子供の頃は、日露戦争の最中と言うことで、絵本などは、戦争物の絵本で、その

絵本をためつすがめつ見て、ざら紙に、戦争の絵を、想像で書いていたようです。
 
 
 
 
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近所の人が、「この子は、絵ばかり描いているので、将来絵描きになるのでは、」

と噂をしていたそうで、母のシカは、親戚に画家で、貧乏なうだつのあがらない人

がいたため、「とんでもない、うちは、この子を、医者にして、うちを診察してもらう

ようにするんや。」と言っていたそうです。
 
 
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                        【当時の戦争ごっこの様子 】
 
 
5才の時に父親のやぞうが、上牧村【かんまきむら】小学校の校長に栄転し、一家

は、その村に引っ越しをしたそうです。

周囲の人々からは、校長先生の息子と言うことで、大切に扱われ、「学校のボン」の

愛称で呼ばれていたそうです。
 
 
 
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ある日、陸軍の乃木将軍の絵本を買ってもらい、遊びは、兵隊ごっこしていたようで、

奈良の歩兵連隊の行軍の隊列の後を、嬉しそうな顔をして、一緒に行軍して、隣村

まで行って、帰れなくなって、迷子になり、泣いているところを、巡査に保護され、隣村

の巡査と一緒に家まで連れて帰ってもらったことがあったそうです。
 
時代は、戦争の時代で、子供の遊びも戦争であったのです。
 
本日の整理は、このくらいにして、又後日ということにしようと思います。
 
 
【次回に続く。】